第67話「油脂の祠」
醤の祠を発ってから南へ三日、一行はかつて菜種畑が黄金色に咲き乱れ、搾油所から豊かな油の香りが漂っていたという丘陵地帯を目指していた。しかし今は、見渡す限り枯れ果てた茶色い土が広がるだけだ。菜種の茎は折れ、搾油所の石臼はひび割れ、あたりには油の匂いどころか、土の匂いさえしない。
「ここが——油脂の祠の領域か」
エルムが杖で前方を示す声は、かすかに震えていた。
「九つの祠の最後。最も古く、最も深い味を守る場所です。油脂は、こくと、うま味と、命そのものの豊かさ。これが失われれば——世界の料理は、決定的に味気ないものになる」
丘陵の頂に、ひときわ大きな石造りの祠が佇んでいた。他の祠より古く、壁には油滴と菜の花の浮き彫りが刻まれているが、それもほとんど判別できないほど崩れ落ちかけている。祠全体が今にも倒れそうに傾き、周囲の土はひび割れて乾ききっていた。
祠の奥で——油脂の精霊が横たわっていた。
それは老人の姿をしていたが、その痩せ細り方は他の精霊をはるかに超えている。肌は干からびた油粕のようにボロボロと崩れ、目は落ち窪み、呼吸のたびにかすかな油の匂いが漏れるだけだった。手には小さな種が一粒握られている——それが最後の菜種の種なのかもしれない。
「油脂の精霊——」
エルムが杖を握りしめ、声を潜める。
「九つの祠で最も古く、最も衰弱している。もう、ほとんど時間がない」
「でも、まだ息はある」
俺は祠の前に簡易竈を据えた。材料はほとんど残っていない。無味砂漠の岩塩、それから旅の途中でわずかに残った食材の欠片——しかし油そのものは、一滴もない。菜種は枯れ果て、搾油所は壊れ、油の記憶はこの地から消え失せようとしている。
「油がない。なら——油の記憶で作る。油の代わりになるものを、俺たちの旅の味から集める」
俺はリリアがいつもポケットに残している焼きおにぎりの焦げた欠片を受け取った。
「焼きおにぎりの焦げには、米の油分と醤油の香ばしさが詰まっている」
次に、シノが最後まで取っておいた卵黄の残りを少しもらう。
「卵黄のこくは、油そのものの代わりになる」
アリシアからは解毒スープに使う柚子の皮の最後の一片。
「柚子の皮の精油が、爽やかな油の香りを加える」
ゴルドアは戦場パンの最後の粉を、将軍は粟粥の最後の欠片を差し出した。トシとグーラは、自分たちの神力でそれぞれの食材に残る油分をかすかに引き出してくれる。それらをすべて一つの鍋に集め、岩塩をほんのひとつまみ加え、少量の水でじっくりと煮詰めていく。
油は一滴も入っていない。しかし——鍋から立ち上る湯気には、確かに「こく」があった。
「“旅のこくの一滴”だ。油そのものはない。でも——ここに集まったすべての者の味の記憶が、油の代わりをしている。お前が守ってきた油脂の味は、まだこの世界に残っている」
器を精霊の前に差し出す。湯気が、精霊のひび割れた肌を包み込んだ。
——次の瞬間、精霊の目が、ゆっくりと開かれた。
「……油の、香り」
声はかすれ、今にも消え入りそうだったが、確かに響いた。
「久しぶりだ。油の香り。こくのある、豊かな、命の香り——」
「ああ。お前が守ってきた油脂の味は、まだ生きている。菜種は枯れても、その種が一粒残っている。それがあれば——もう一度、この地に菜の花が咲く」
「……ありがとう。もう一度——油を守れる。そう、思える」
精霊は器を受け取り、一口すする。その干からびた肌が、かすかに潤いを取り戻し始めた。そして——祠の壁のひび割れが塞がり、周囲の枯れ果てた土から、小さな緑の芽が一つ、顔を出す。それは菜種の芽だった。
「——祠が、癒えた」
エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。その声は震え、目には涙が浮かんでいる。
「九つ——すべての祠が癒された。これで、大地の味は戻る」
「九つ、終わったのか」
リリアが弓を下ろし、呆然と呟く。
「ああ。長かった。でも——終わった」
「カズマ——やったな」
「ああ。みんなのおかげだ」
シノがへなへなと地面に座り込み、アリシアが涙をぬぐって笑う。ゴルドアとマクシミリアンが無言で拳を握り合い、ギリアムが大剣を地面に突き立てて空を見上げた。トシが扇子を広げ、グーラが静かに微笑む。シロガネとクロがくぅんと鳴き、ガルムと喪犬が静かに尾を振っている。
精霊は器を胸に抱き、かすかに微笑んだ。その手に握られた最後の菜種の種が、ほのかに光を放ち始めている。
「——ありがとう、旅人たちよ。この種を植えれば、菜の花が咲き、菜種が実り、油が生まれる。時間はかかるが——必ず」
「ああ。俺たちも、またここに来る。その時は、その油で料理を作らせてくれ」
「……約束だ」
「約束だ」
精霊は深くうなずき、再び静かな眠りにつく。今度は回復のための、穏やかな眠りだ。祠の周りでは、菜種の芽が少しずつ数を増やし、かすかに風が油の香りを運び始めている。
エルムが地図を巻き取りながら言った。
「これで九つの祠が癒された。原初の飢餓は鎮まり、大地の味は少しずつ戻っていく。長い旅だった」
「ああ。でも——旅はまだ終わらない。戻って、屋台を開けなければ」
「そうだな。王都で待つ者たちがいる」
リリアが焼きおにぎりの最後の欠片をかじりながら言った。
「帰ったら、まず焼きおにぎりだな」
「ああ。約束だ」
「楽しみにしてる」
トシが新しい扇子を広げた。その絵は——九つの祠と、その周りに咲き始めた花々、そして中央に立つ屋台と、そこに集う無数の人々の姿だった。
「さあ、王都へ帰ろう。屋台を開けるために」
「了解!」
「はい!」
一行は菜の花の芽吹き始めた丘陵を後に、南の王都へと歩みを進める。長い旅が終わり、大地の味が戻り始めた世界で——屋台シェフの新しい物語が、これから始まる。
(第67話 終)
▼ 次回予告(第68話用の引き)
九つの祠をすべて癒し、王都への帰路についた一行。しかし道中、立ち寄った村でカズマを待っていたのは、思いがけない知らせだった。
「カズマ殿!王都で“味の復活祭”が開かれます!ついては——あなたに、祭りの総料理長を!」
(次話:「味の復活祭」)




