第66話「醤の祠」
酢の祠を発ってからさらに東へ、一行はかつて広大な塩田が広がっていたという海岸沿いの地を目指していた。潮の香りはすでに消え去り、海風もどこか生気を失っている。道中、あちこちに放棄された塩田の跡が広がっていたが、そのすべてが干上がり、白い塩の結晶は灰褐色に濁り、ひび割れた土が露出している。
「ここが——醤の祠の領域か」
エルムが杖で前方を示す。海岸を見下ろす小高い丘の上に、古い石造りの祠が一つ、潮風に削られて傾いていた。壁には甕と波の浮き彫りが刻まれているが、それもほとんど判別できないほど崩れ落ちかけている。
祠の奥で——醤の精霊が横たわっていた。
それは中年の男の姿をしていた。痩せ細り、肌は干からびた塩のように白くひび割れ、唇は紫色に変色している。右手には小さな甕の欠片が握られていたが、その中身はとうの昔に空っぽだった。
「醤の精霊——塩味と発酵の味を司る者です」
エルムが静かに言った。
「かつては東方で最も力強い精霊の一つだったと聞きます。しかし——」
「もう、味がしない」
精霊がかすれた声で呟いた。目は閉じられたまま、声だけが風に消えていく。
「塩も、醤油も、味噌も——すべて、砂の味しかしない。私が守るべき味は、もうどこにも——」
俺は祠の周囲を見渡した。確かに塩田は干上がり、甕も壊れている。しかし——祠の祭壇の下に、小さな壺が一つだけ無傷で残っていた。蓋を開けると、中にはわずかに湿った塩が残っている。それは驚くほど白く、かすかに海の香りがした。
「まだ、塩は残っている」
「しかし——あれだけの塩田が、もう——」
「十分だ。それに——俺の手には、無味砂漠の岩塩もある。二つの塩を合わせれば、塩味の記憶は蘇る」
俺は祠の前に簡易竈を据え、火を起こした。鍋に少量の水を入れ、無味砂漠の岩塩と、祠の壺から取り出した塩をほんの少しずつ加える。それから——持参した味噌の最後のひとさじを溶かし入れた。味噌は発酵の味そのもの。塩味と発酵の味が混ざり合い、湯気と共に立ち上る香りが祠の空気を変えていく。
「“塩味の目覚め汁”だ。具も何もない。でも——塩味と発酵の味が、確かにここにある」
器を精霊の前に差し出すと、精霊の鼻がかすかに動いた。
——次の瞬間、精霊の目が、ゆっくりと開かれた。
「……塩の、香り。それから——味噌の香り」
声はかすれていたが、驚きが混ざっていた。
「久しぶりだ。塩味の香り。私が守っていた、発酵の味——」
「まだ守れる。この壺の塩と、俺の岩塩があれば、塩味はもう一度生まれる。時間はかかるが——必ず戻る」
「……ありがとう。もう少しだけ——生きてみる」
精霊は器を受け取り、一口すする。そのひび割れた唇に、かすかに赤みが差した。そして祠の壁のひび割れが塞がり始め、周囲の干上がった塩田に、かすかに湿り気が戻っていく。
「——祠が、癒えた」
エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。
「これで東方の二つ目。残るは——油脂の祠。九つの祠の最後だ」
「最後か」
「ああ。油脂の祠は最も古く、最も深い味を司る。こくと、うま味と、命そのものの豊かさを守っている。その精霊は——おそらく、誰よりも衰弱しているだろう」
「それでも、行くだけだ」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。
「最後の祠か。ここまで長かったな」
「ああ。でも、あと一つだ」
「どんな料理で目覚めさせるんだ」
「油脂の祠なら——油そのものを使うか、あるいは油の記憶を使うか。まだわからん。でも、必ず作る」
トシが扇子を広げて言った。
「油脂の祠か。兄貴、あそこは確か——」
「ああ。我が美食教団を率いて、最も深く荒らした祠だ。油脂の味を歪め、精霊を深く傷つけた。その罪を——今度こそ償わねばならん」
グーラの声は静かだが、決意に満ちていた。
エルムが地図を広げ、最後の目的地を示す。
「油脂の祠はここから南に三日。かつては菜種畑と搾油所が立ち並ぶ豊かな土地だった。今は——」
「行ってみなければわからない。明日も早い。今日は休め」
「了解」「はい!」
一行はかすかに潮の香りが戻り始めた醤の祠の傍らで、明日への備えを始めた。東方の二つ目の祠が癒え、残るは最後の一つ——油脂の祠。大地の味をすべて取り戻す旅は、終わりに近づいている。
(第66話 終)
▼ 次回予告(第67話用の引き)
九つの祠の最後——「油脂の祠」を目指す一行。かつて菜種畑が広がっていたその地は、今はすべて枯れ果て、祠の精霊は今にも消え入りそうに喘いでいる。油脂の味——こくと深みを守る精霊に、カズマは旅の最後の一皿を捧げる。
(次話:「油脂の祠」)




