第65話「東方への旅立ち」
蜜の祠を発ってから、一行は東へと向かっていた。北方の冷たく乾いた空気が次第に和らぎ、かわりに湿り気を帯びた風が吹き始める。だがその風は、どこか酸っぱいような、腐敗した果実を思わせる異臭を運んでいた。
「この風——なんだか、酢が腐ったような匂いがする」
リリアが鼻を押さえながら言った。
「酢の祠が弱っているからだ」
エルムが杖をつきながら答える。
「酢の精霊は酸味を司る。その力が衰えれば、酸味は腐敗へと転じる。かつて果樹園と酢蔵が立ち並んでいた東方の地は、今や酸敗の荒野と化しているだろう」
アリシアが解毒スープ用の小さな壺を胸に抱きながら言った。
「酢は解毒にも使われる重要な味です。これが失われれば、料理だけでなく薬にも影響が出ます」
「ああ。だからこそ、急がなければならない」
シノがふと前方を指さした。
「あれ——村かな。煙が立ってる」
見ると、荒れ果てた果樹園の跡地に、小さな集落があった。家々は石造りで、煙突からは細く煙が上がっている。しかし村全体を包む空気は重く、人々の表情には生気がなかった。
村の入口で、一人の老爺がぽつんと座っていた。手には小さな甕が握られているが、その中身は空っぽだった。
「じいさん、この村はどうした」
「……旅の方か。この村はもう終わりだ。酢が、もう一滴も作れん」
「酢が」
「ああ。三年前までは、この村の酢は東方一とうまいと言われていた。果樹園で採れた果物を発酵させ、甕でじっくり熟成させる——その琥珀色の酢は、料理を引き立て、薬にもなり、遠方から買い付けに来る者も多かった。しかし——」
老爺は甕を差し出した。底には黒く変色した滓がわずかに残っているだけで、酢の香りは完全に消え失せている。
「ある日から、果物が育たなくなった。育っても味がせず、発酵させても酢にならん。祠の精霊が弱っているせいだと、みな言っている。だが——どうすることもできん」
俺は甕を受け取り、底に残った滓の匂いを嗅いだ。確かに、かすかに酸味の名残があった。腐敗しきっているが、その奥に本来の酢の香りが、かろうじて生きている。
「まだ、酢の種は残っている。この滓を使えば、精霊に味を思い出させられるかもしれない」
老爺は目を大きく見開いた。
「そんなことが——」
「やってみなければわからん。案内してくれ。酢の祠へ」
老爺の案内で、村の外れにある果樹園の跡地へ向かう。そこには、苔むした石造りの祠がひっそりと佇んでいた。壁には果物と甕を象った浮き彫りが刻まれているが、それも崩れ落ちかけている。祠の周囲にはかつて果樹が立ち並んでいたであろう畝が無数に残っていたが、今はすべて枯れ果てていた。
祠の奥で——酢の精霊が眠っていた。
それは老婆の姿をしていた。年の頃は八十を過ぎているだろうか。痩せ細り、肌は干からび、呼吸のたびにかすかな酸っぱい匂いが漏れている。かつては酸味を司り、果物を発酵させて酢を生み出す力を持っていた精霊も、今はほとんど力を失いかけていた。
「酢の精霊——」
エルムが杖を握りしめ、声を潜める。
「これほど衰弱しているとは。酸味そのものが、この世界から消えかかっている証拠だ」
「まだ息はある。間に合う」
俺は祠の前に簡易竈を据え、持参した材料を並べた。老爺から預かった甕の滓、それから旅の途中で分けてもらった果物の残り、無味砂漠の岩塩——材料は少ないが、酢の味を呼び覚ますにはこれで十分だ。
「酢は、時間が作る味だ。発酵を待つ時間はないが——この滓には、かつての酢の種がまだ生きている。これを甕に戻し、果物の果汁と塩を加え、火で温めれば——」
俺は甕に滓を戻し、刻んだ果物の絞り汁を加え、岩塩をほんのひとつまみ。それから甕ごと簡易竈の火にかけ、弱火でじっくりと温めた。発酵ではなく加熱によって酸味を引き出す、簡易の酢だ。
甕から立ち上る湯気に、かすかに酸っぱい香りが混ざり始めた。それは腐敗臭ではなく、爽やかで食欲をそそる、本物の酢の香りだった。
「“思い出の酢”だ。時間はかかっていない。でも——この村の酢蔵で長年培われてきた酢の種が、確かに生きている。これを捧げる」
甕を精霊の前に差し出すと、精霊の鼻がかすかに動いた。
——次の瞬間、精霊の目が、ゆっくりと開かれた。
「……酢の、香り」
声はかすれ、風に消え入りそうだったが、確かに響いた。
「久しぶりだ。酢の香り。酸っぱくて、爽やかで——それでいて、どこか懐かしい」
「お前が守ってきた酢の味だ。まだ消えていなかった。この村の人々が、ずっと甕に守り続けてきた」
「……ありがとう。もう一度——酢を作れる」
「ああ。この甕の種があれば、また果物を発酵させて酢を生み出せる。時間はかかるが——必ず戻る」
精霊は甕を胸に抱き、かすかに微笑んだ。その干からびた肌が少しずつ潤いを取り戻し、祠の壁のひび割れが塞がり始める。そして——祠の周りの枯れ果てた果樹の枝に、小さな新芽が顔を出した。
「——祠が、癒えた」
エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。
「これで東方の一つ目。残るは醤の祠、油脂の祠——」
「あと二つ」
「ああ。しかし東方の祠は、やはり衰弱が激しい。次の祠も、同じような状態だろう」
「それでも、やるだけだ」
老爺が祠の前に跪き、涙をこぼしていた。
「……村の酢が、戻るのか」
「ああ。時間はかかるが——甕の種は生きている。これを大事に育てれば、必ず酢は戻る」
「ありがたい。何とお礼を——」
「礼はいらない。その代わり、酢ができたら一口分けてくれ。俺の屋台で使いたい」
「もちろんだ!」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。
「しかし、酢が戻るのにどのくらいかかるんだ」
「年単位だろうな。でも——精霊が目覚めた今、必ず戻る」
「なら、気長に待つさ。その頃には、また旅の途中でこの村に寄るかもな」
「そうだな」
シノとアリシアは、果樹の新芽を見つけてはしゃいでいる。ゴルドアとマクシミリアンは無言で祠の修復を見守り、ギリアムは大剣を地面に突き立てて空を見上げた。
「次の祠は——醤の祠だ」
エルムが地図を広げて言った。
「醤は塩味と発酵の味を司る。東方でも最も古い祠の一つで、かつては広大な塩田と醤油蔵が広がっていたと聞く。今は——」
「行ってみなければわからない。明日は早い。今日は休め」
「了解」「はい!」
一行は新芽が顔を出した酢の祠の傍らで、明日への備えを始めた。東方の最初の祠は癒えた。残るは二つ——大地の味をすべて取り戻すまで、屋台シェフの旅は続く。
(第65話 終)
▼ 次回予告(第66話用の引き)
東方二つ目の祠「醤の祠」を目指す一行は、かつて広大な塩田が広がっていたという海岸沿いの地へ到着する。しかしそこでは塩田はすべて干上がり、祠の精霊は塩味そのものを失いかけていた。カズマは持参した岩塩と、旅の仲間たちの味の記憶を活かし、精霊に塩味を思い出させる一皿を作り始める。
(次話:「醤の祠」)




