第64話「蜜の祠」
乳の祠を発ってからさらに北へ、一行はかつて花々が咲き乱れ、蜜蜂が飛び交う楽園だったという谷間を目指していた。しかし道中、あたりの風景はますます荒涼とし、地面は乾ききってひび割れ、木々はすべて枯れ果てている。花の色も蜂の羽音も、どこにも見当たらなかった。
「ここが——蜜の祠の領域か」
エルムが杖で前方を示す。谷間の奥に、小さな石造りの祠がぽつんと佇んでいた。壁には蜂の巣を象った浮き彫りが刻まれているが、それも今は崩れ落ちかけ、祠全体が今にも倒れそうに傾いている。
「花も蜂も、何も残っていない」
「ああ。だが——祠の中に、まだ精霊がいるはずだ」
祠に近づくにつれて、かすかに甘い匂いが漂ってきた。腐った蜜の匂いではなく、もっと優しい、ほのかな甘さだった。祠の奥では——小さな少女の精霊がうずくまっていた。年の頃は七つか八つ。痩せ細り、肌は透き通り、背中には蜂の翅が生えているが、その翅も破れ落ちかけていた。
「蜜の精霊——」
トシが扇子を閉じて声を潜める。
「昔はもっと元気だったんだがな。蜂たちと一緒に、花々を飛び回っていたのに」
「今はもう、蜂も花もいない」
精霊がかすれた声で呟いた。
「蜜の味は、消えた。私が守るべき味は、もうどこにも——」
俺は祠の周囲を見渡した。確かに花はなく、蜂もいない。しかし——祠の壁の割れ目に、かすかに琥珀色に光るものがある。近づいて見ると、それは古い古い蜜蝋の塊だった。おそらく祠が建てられた時からここにあった、最初の蜜の名残だ。
「蜜の味は、まだ残っている」
俺はその蜜蝋の塊をそっと削り取った。中からとろりとした蜂蜜が、ほんの一滴だけ顔を出す。それは驚くほど濃厚で、かすかに花の香りがした。
「これが——この祠の最初の蜜だ。千年以上、ここで守られてきた蜜の味だ」
「でも、たった一滴——」
「一滴あれば十分だ」
俺は簡易竈で火を起こし、小さな鍋に湯を沸かした。その湯に、無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ。それから、蜜蝋から掬い取った一滴の蜂蜜を、そっと溶かし入れる。
湯気と共に立ち上る、甘く優しい香りが祠の空気を変えていく。それは花の蜜の香りであり、同時に蜂たちの羽音を想わせる、生命の気配そのものだった。
「“蜜の一滴の目覚め湯”だ。蜂蜜は一滴だけ。でも——その一滴が、千年の想いを溶かしている。お前が守ってきた蜜の味は、確かにここにある」
精霊が震える手で器を受け取り、一口すする。次の瞬間——その濁った瞳が、かすかに輝きを取り戻し始めた。
「……あまい。あったかい。これが——私が守りたかった蜜の味。ずっと、ずっと、忘れていた」
「まだ守れる。お前だけじゃない。花も蜂も、もう一度ここに戻ってくる」
「……うん。ありがとう。もう少しだけ——がんばる」
精霊は器を抱きしめ、かすかに微笑む。その背中の翅が少しずつ修復され、祠の壁のひび割れが塞がり始めた。そして——祠の周りの土から、小さな小さな花の芽が顔を出す。
「——祠が、癒えた」
エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。
「これで北方の三つ目の祠が癒された。残るは——東方の三つ」
「ああ。まだ旅は続くが——まずはここまでだ」
トシが扇子を広げて言った。
「北方の祠が全部癒えたな。しかし——東方の祠はもっと古い。精霊たちの衰弱も、さらにひどいかもしれない」
「それでも、やるだけだ。できることを、一つずつ」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。
「でも、少しずつ世界が戻ってきてる気がする。空気の匂いも、さっきより少しだけ甘い」
「蜜の精霊が目覚めたからだ。これからは花も咲き、蜂も戻るだろう」
シノとアリシアは、祠の周りに芽吹いた花の芽を見てはしゃいでいる。ゴルドアとマクシミリアンは無言で祠の修復を見守り、ギリアムは大剣を地面に突き立てて空を見上げた。
「東方の祠は——“酢の祠”、“醤の祠”、“油脂の祠”と聞く」
エルムが地図を広げながら言った。
「いずれも、味の基本を成す重要な要素だ。酢は酸味、醤は塩味と発酵の味、油脂はこくと深み——」
「基本の味か。屋台の料理に欠かせないものばかりだ」
「ああ。しかし東方の祠は、かつて戦神の軍と美食教団が衝突した場所でもある。その傷がまだ残っているかもしれん」
「なら、なおさら行かなければ」
グーラが静かにうなずいた。
「美食教団を率いて東方の祠を荒らしたのは、この我だ。その罪を、今度こそ償う」
「兄貴、俺も一緒に行くよ」
「ああ。共に行こう」
喪犬が祠の周りを一周し、シロガネとクロがその後を追い、ガルムが静かに見守っている。
「よし、明日は東方へ向かうぞ。旅はまだ長い。しっかり休め」
「了解」
「はい!」
一行は花の芽吹き始めた蜜の祠の傍らで、明日からの東方への旅に備えて静かに夜を過ごした。北方の祠は癒えた。次は東方——基本の味を守る三つの祠へ。大地の味をすべて取り戻すまで、屋台シェフの旅は続く。
(第64話 終)
▼ 次回予告(第65話用の引き)
東方最初の祠「酢の祠」を目指す一行。かつては果樹園と酢蔵が立ち並んでいたその地は、今は荒れ果て、祠の精霊は酸味そのものを忘れ去ろうとしていた。
「酢の味——酸っぱさを、もう一度教えてほしい」
カズマは持参した柑橘の残りを使い、精霊に酸味を思い出させる一皿を作り始める。
(次話:「東方への旅立ち」)




