第58話「果樹園の祠」
霧の山道を抜けた一行が次にたどり着いたのは、荒廃した果樹園だった。
かつては見事な果樹が立ち並んでいたであろうその場所は、今は枯れ枝が折り重なり、地面には腐りかけた果実が無数に転がっている。季節は収穫期のはずなのに、木々に実る果物はどれも小ぶりで、色あせ、見るからに味がなさそうだった。そして果樹園の中央には、古い石造りの祠がひっそりと佇んでいる。苔むした壁には果物の浮き彫りが刻まれ、入口の両脇にはリンゴと葡萄を象った石像が置かれていた。
「ここが——西方最初の“味の祠”だな」
エルムが杖で祠を示す。
「ああ。果物の味を守ってきた祠だ。しかし——見ての通り、祠の力は弱まっている」
祠の奥を覗くと、小さな祭壇の上で、かすかに光る精霊が眠っていた。透き通った少女の姿をしているが、その輪郭はぼやけ、光も今にも消え入りそうに瞬いている。果物の味を司る精霊——それが力を使い果たし、眠りについているのだ。
「この精霊が目覚めなければ、果物の味は戻らない」
「目覚めさせるには」
「精霊に——味を捧げるのです」
エグゼビアが言った。
「かつて美食教団が各地の祠を荒らした時も、精霊たちは味を奪われて眠りにつきました。しかし——カズマ殿の料理は、きっと精霊をも目覚めさせる」
俺は祠の前に簡易竈を据え、材料を並べ始めた。持参した果物は少ないが、果樹園の隅にまだわずかに生き残っている木があった。シノとアリシアが手分けして、かろうじて実っていた小さなリンゴと葡萄を集めてくる。
「師匠、こんなに小さいですけど——」
「十分だ。果物の味は、大きさじゃない」
俺はリンゴを薄く切り、葡萄を潰して果汁を絞る。それらを鍋に入れ、水と岩塩をほんの少し加えて弱火で煮詰めていく。香辛料は使わない。果物そのものの甘みと酸味を引き出すために、ただじっくりと熱を加えるだけだ。
煮詰まるにつれて、鍋から立ち上る湯気に甘い香りが混ざり始めた。リンゴのほのかな甘さ、葡萄の爽やかな酸味——それらが混ざり合い、果樹園全体に広がっていく。
「いい匂い——」
アリシアが目を閉じて香りを吸い込む。
「果物の匂いだ。本当の、果物の匂い」
「まだだ。もう少し」
俺は最後に、無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ加えた。塩が甘みを引き立て、酸味をまろやかにする。そして——とろりと煮詰まったソースを、小さな器に注いだ。
「“果樹園の目覚めソース”だ。これを精霊に捧げる」
祠の祭壇に器を置き、精霊の前にかざす。ソースの湯気が、眠る精霊の輪郭を優しく包み込んだ。
——次の瞬間、精霊の目が、ゆっくりと開かれた。
「……何、この匂い」
声はかすれていたが、確かに聞こえた。
「果物のソースだ。この果樹園で最後に生き残った果物から作った」
「果物の——味がする。久しぶり。ずっと、ずっと、味を忘れてた」
「思い出したなら、もう一度、果物に味を戻してやってくれ」
「……うん。ありがとう」
精霊はソースの器を胸に抱き、光が少しずつ強まっていく。祠の壁に刻まれた果物の浮き彫りが、かすかに色を取り戻し始めていた。
そして——果樹園全体が、静かな光に包まれた。
枯れ枝だと思われていた木々の枝に、小さな新芽が吹き始める。地面に落ちていた腐った果実は土に還り、代わりに青々とした葉が茂り、つぼみがほころび、小さな果実が顔を出した。
「果樹園が——息を吹き返してる」
リリアが呆然と呟く。
「ああ。精霊が力を取り戻したんだ」
「これで、この地方の果物の味は戻るのか」
「時間はかかるだろう。でも——確実に戻る」
精霊は祭壇の上で微笑み、再び静かな眠りについた。しかし今度は、力尽きた眠りではない。力を蓄え、再び果樹園を見守るための眠りだった。
「——祠が、癒えた」
エルムが祠の壁に手を触れて言った。
「これで西方の一つ目。残るはこの地方の二つと、北方三つ、東方三つ」
「ああ。まだまだ旅は続くな」
トシが扇子を広げて言った。
「しかし、これでわかったな。祠の精霊はみんな、味を忘れて眠ってるんだ。俺たち食神が昔、祠を建てた時は、精霊たちはもっと元気だったんだけどな」
「長い年月で、疲れ果てていたんだろう」
「そうだな。でも——カズマの料理で目覚めるなら、これからは大丈夫だ」
グーラも静かにうなずいた。
「次の祠も、同じように味を捧げればいい。我々の役目は——カズマを守り、祠へ導くことだ」
果樹園の復活を見届けた一行は、次の祠へ向けて出発する準備を整えた。
「果物のソース、少し残ってる」
リリアが指を舐めながら言った。
「持っていくか」
「ああ。次の祠でも、参考になるかもしれない」
「そうだな」
シノとアリシアは、復活した果樹園の隅で、新しい果物の芽を見つけてはしゃいでいる。ゴルドアとマクシミリアンは無言で次の祠への地図を確認し、ギリアムは大剣を研ぎ直していた。エルムが杖で西方の地図を指し示す。
「次の祠は——ここから南西に三日ほど行った場所にある。“麦の祠”と呼ばれている。穀物の味を守る祠だ」
「麦か。将軍の粥や、ゴルドアの戦場パンに通じるものがあるな」
「ああ。旅の経験が活きるだろう」
喪犬が祠の周りを一周し、尾を振って戻ってきた。シロガネとクロがその頭を舐めてやり、ガルムが静かに見守っている。トシが新しい扇子を広げた。絵は、果樹園と祠と、その周りに集う一行の姿に変わっている。
「さあ、次の祠へ行こう。大地の味を取り戻す旅は、まだ始まったばかりだ」
「了解」
「はい!」
一行は復活した果樹園を後にし、次の「麦の祠」を目指して歩き始めた。背後では、果樹が風に揺れ、小さな果実が朝日に輝いている。
(第58話 終)
▼ 次回予告(第59話用の引き)
麦の祠は広大な麦畑の跡地にあった。しかし祠の精霊は果樹園の精霊よりさらに衰弱し、ほとんど形を保てないほどになっている。
「麦の味を司る精霊——なら、麦を使った料理で目覚めさせられるか」
カズマは将軍とゴルドアの協力を得て、ある料理を作り始める。
(次話:「麦の祠」)




