第57話「味を食う霧」
味枯れの村を発ってから二日、一行はさらに西へと歩みを進めていた。街道は次第に細くなり、やがて深い山道へと変わる。木々は鬱蒼と茂り、日差しは遮られ、あたりには薄い霧が立ちこめ始めていた。
「この霧——なんだか舌が痺れるような感じがする」
リリアが口元を押さえながら言った。
「霧のせいか」
俺も自分の舌を確かめる。かすかに痺れている。味覚が鈍っているわけではないが、何かが舌の表面を覆い、感覚を奪おうとしているようだった。
「これが“味を食う霧”か」
エルムが杖を掲げ、霧の様子を探る。
「噂には聞いていた。西方の山道に現れる異様な霧で、触れると舌が麻痺し、やがて何も感じられなくなるという」
「原因は」
「わからん。しかし——おそらくは、大地の味が枯れていることと関係があるのではないか」
アリシアが自分の舌を指で押さえながら言った。
「師匠——確かに、少しずつ味覚が鈍っています。毒ではないけれど、このままだと」
「ああ。霧を避けるか、霧に対抗する料理を作るかだ」
シノが辺りを見回す。
「でも、霧はどんどん濃くなってます。このままじゃ——」
ゴルドアとマクシミリアンが左右に展開し、ギリアムが大剣を構えて霧を払おうとするが、霧は剣をすり抜けてまとわりつくだけだった。シロガネとクロ、ガルム、喪犬も舌を出して不快そうにしている。
「どうする、カズマ」
リリアが矢をつがえながら尋ねる。
「決まってる。ここで料理を作る」
「こんな霧の中で!?」
「ああ。霧が味を奪うなら——霧より強い味で、舌を呼び覚ませばいい」
俺は道端の岩陰に簡易竈を据え、火を起こし始めた。材料は限られているが、味枯れの村で分けてもらった野菜と、まだ残っている無味砂漠の岩塩、それから——カジカの村でエグゼビアから預かった香辛料の小袋がある。
「香辛料か。辛さで舌を刺激する」
「そうです。西方の料理は香辛料を多用します。舌を痺れさせるほどの辛さが特徴です」
「なら——それでいく」
俺は香辛料の中から、特に辛味の強い赤唐辛子の粉末と、痺れるような香りの花椒を取り出した。それらを油でじっくりと炒め、香りを引き出す。辛い煙が立ち上り、霧を押しのけてあたりに広がった。
「けほっ——すごい匂い」
リリアが咳き込む。
「いいんだ。この辛さが霧を払う」
俺は炒めた香辛料に、刻んだ野菜と水を加えて煮込み、最後に岩塩で味を調えた。できあがったのは——真っ赤に輝く「麻辣スープ」だった。
「“霧払いの麻辣スープ”だ。辛さと痺れで舌を強制的に目覚めさせる。霧の麻痺に、敢えて刺激で対抗する——毒を持って毒を制す、だ」
「でも——辛すぎないか」
「辛い。でも、それでいい。辛さは生きている証拠だ」
俺はまず自分で一口すする。次の瞬間、口の中が灼熱に包まれ、舌が激しく痺れた。しかし——その痺れが霧の麻痺を打ち破り、舌の感覚が鮮明に蘇っていくのがわかる。
「……効く。みんな、一人ずつ飲め。辛いが、必ず舌が戻る」
「了解」「ああ」
リリアがおずおずと一口飲んで、むせながらも目を丸くする。
「舌が——ビリビリするけど、確かに味が戻ってる!」
シノが涙を流しながらスープをすすり、アリシアが咳き込みながらも笑顔を見せる。ゴルドアとマクシミリアンは無言で一気に飲み干し、ギリアムは「これで戦える」とうなずいた。エルムも静かにスープを味わい、トシとグーラは神なので霧の影響を受けないらしく、面白そうに見物している。シロガネとクロには辛すぎるので、代わりに岩塩を舐めさせてやる。
「——味が戻ったな」
リリアが舌を確かめながら言った。
「ああ。でも、霧はまだ消えていない」
「この霧、どこから来てるんだ」
エルムが前方を杖で指す。
「霧の発生源があるとすれば——この先の谷間だろう。調べてみるか」
「ああ。霧を払い続けるには、発生源自体を断つ必要がある」
俺は残りの麻辣スープを携帯用の水筒に詰め、全員に配った。
「これを飲みながら進めば、しばらくは霧の影響を防げる」
「辛い旅になりそうだな」
「いいだろ、たまには」
一行は麻辣スープを手に、霧の深い谷間へと歩みを進めた。やがて、谷の奥に——小さな祠が見えてくる。五つの祠とは違う、もっと素朴な、しかし明らかに古い祠だった。
「祠がある」
「ここが霧の発生源か」
祠の入口には、一匹の獣がうずくまっていた。小さな狐のような姿だが、その体は霧そのものでできているかのように透き通り、目だけがかすかに光っている。
「霧狐——大地の味が枯れると現れるという、伝説の獣です」
エグゼビアが言った。
「こいつが霧を生み出しているのか」
「はい。ですが——悪意はありません。むしろ、苦しんでいるように見えます」
霧狐は俺たちを見ると、かすかに鳴き声を上げた。その声は悲しげで、喉の奥が震えている。
「こいつも——大地の味が枯れたせいで、苦しんでいるのか」
「たぶんな。霧を出して、自分の苦しみを外に吐き出しているんだ」
「なら——こいつにも、料理を食わせる必要があるな」
俺は携帯用の竈で、新たに小さな鍋を火にかけた。今度は麻辣スープではなく、もっと優しい味のもの——無味砂漠の岩塩をほんの少し溶かしただけの、温かい塩湯だ。そこに、村で分けてもらったリンゴの皮をほんの少しすりおろして加える。
「“鎮静の塩湯”だ。辛さではなく、温かさで舌を癒す。霧で苦しむなら——温かい湯で、少しだけ楽になるはずだ」
霧狐の前に小さな椀を差し出すと、狐はおずおずと舌を伸ばし、塩湯を一口舐めた。
——次の瞬間、霧狐の透き通った体が、かすかに色を取り戻し始めた。
「……コン」
鳴き声が、少しだけ明るくなる。狐はもう一口、二口と塩湯を舐め、やがて——静かに伏せた。その体から、霧が少しずつ晴れていく。周囲の空気が軽くなり、木々の葉の色が鮮やかさを取り戻し始めていた。
「霧が——消えていく」
リリアが空を見上げる。
「ああ。狐の苦しみが和らいだんだ」
「これで、この山道の霧は大丈夫か」
「たぶんな。でも——根本的には、大地の味そのものを癒さなければ、また別の場所で同じことが起きる」
霧狐は立ち上がり、祠の奥へと消えていった。祠の周囲には、かすかに岩塩の温かさが残っている。
エグゼビアが地図を広げて言った。
「カズマ殿。どうやら味枯れの原因は、大地のあちこちに点在する“味の祠”が傷ついていることにあるようです」
「味の祠」
「はい。かつて食神トシ様とグーラ様が世界中に建てた祠で、大地の味を守る役割を果たしていました。その祠が、原初の飢餓の影響で傷つき、機能を失いつつある」
「つまり——その祠を全部回って、味を戻せばいいのか」
「そういうことです。数は——おそらく、九つ」
「九つか」
トシが扇子を閉じて言った。
「俺と兄貴が昔、建てた祠だよ。確かに九つある。西方に三つ、北方に三つ、東方に三つ。まさかそれが、こんな形で問題になるとは」
「なら、まずは西方の三つを回るぞ」
「了解」
「ああ」
リリアが少しだけ笑った。
「また祠巡りか。今度は五つじゃなくて九つだぞ」
「ああ。でも——やることは変わらない。祠を訪ね、料理を作り、味を戻す」
「それで世界の味が戻るなら——安いもんだな」
「ああ」
一行は山道を抜け、次の祠へと向かう。麻辣スープの残りをちびちびと飲みながら、西へ、西へ——大地の味を癒す旅が続く。
(第57話 終)
▼ 次回予告(第58話用の引き)
西方最初の「味の祠」は、荒廃した果樹園の跡地にひっそりと佇んでいた。
祠の奥には、かつて果物の味を守っていたという精霊が、力を失って眠りについている。
「果物の味を、もう一度呼び覚ませるか」
カズマは祠の前で、持参した果物と香辛料を使った一皿を作り始める。
(次話:「果樹園の祠」)




