第56話「味枯れの村」
西方へ向かう街道を進むこと五日。一行が最初に立ち寄った村は、見た目には何の変哲もない農村だった。
緑の田畑が広がり、野菜は見事に実っている。果樹園にはたわわに実った果物が重そうに枝を垂らし、小川の水は澄んでいた。しかし——村の中には、奇妙な静けさが漂っていた。誰も畑で働いておらず、子供たちの声もしない。家々の窓は閉ざされ、煙突からは煙が上がっていない。
「村人が、いるのに」
リリアが弓を握りしめて言う。
「ああ。気配はある。でも——何かがおかしい」
広場の中央で、一人の老人がぽつんと座っていた。痩せ細り、目の下には深い隈がある。手には収穫したばかりのリンゴが握られていたが——一口かじっただけで、そのまま放置されている。
「じいさん、この村に何があった」
俺が尋ねると、老人は虚ろな目を上げた。
「……旅の方か。すまないが、この村には何もない。食べ物なら見ての通り、山ほどある。でも——味がしないんだ」
「味がしない」
「ああ。何を食べても——砂を噛むような味しかしない。野菜も、果物も、穀物も、水さえも。すべてが無味だ。もう三週間も——誰もまともに飯を食っていない」
老人は手にしたリンゴを差し出した。俺はそれを受け取り、一口かじる。歯ごたえは確かにリンゴだ。果汁も豊富で、見た目も鮮やか。しかし——舌に広がるのは、無味砂漠の砂を噛んだ時と同じ、虚無的な無味だった。
「……ひどいな」
「ああ。腹は減る。だが何を食っても満たされない。村の者たちは、諦めて家に籠もっている。このままでは——みんな飢え死にするだろう」
アリシアがリンゴを受け取り、自分の舌で確かめる。
「師匠、これ——私がかつて毒で味覚を失った時と同じです」
「原因はなんだ。毒か」
「わかりません。でも——毒ではない気がします。毒はもっと苦痛を伴う。これはただ——味だけが消えている」
「大地の味が枯れている、か。エグゼビアの言っていた通りだ」
シノが周囲の畑を見渡して言った。
「野菜はちゃんと育ってるのに。なんで味だけ消えるんだろう」
「土だ」
俺はしゃがみ込み、畑の土をひとつまみ取った。指でこすり、匂いを嗅ぎ、少しだけ舐めてみる。無味だった。土の匂いも、鉄の味も、何も感じられない。
「土そのものが、味を失っている。作物は育つが、味を吸収できないんだ」
「土が味を失うなんて、ありえるのか」
「わからん。でも——料理人としてできることは一つだ。味のない食材に、味を戻す」
俺は背負った包みを解き、携帯用の竈を取り出した。村の広場の中央で火を起こし、鍋に湯を沸かす。
「じいさん、この村で採れる野菜を全部持ってきてくれ。それと——井戸の水も」
「料理をするのか」
「ああ。味のない食材で、味のある料理を作る」
「そんなことが——」
「できる。俺はこれまで、無味砂漠で塩を見つけ、虚無の祠で存在の味を作ってきた。味のない場所に味を作り出すのが、料理人の仕事だ」
村人たちが、恐る恐る家々から顔を出す。老人が声をかけると、痩せた男女が次々に野菜を抱えて広場に集まってきた。キャベツ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、それから先ほどのリンゴ——どれも見事に育っているのに、無味の野菜ばかりだ。
俺はそれらを手早く切り分け、鍋に入れる。水は井戸水。岩塩を少し加え、薬草を刻んで風味を足す。しかし——これだけでは味は戻らない。必要なのは、もっと根本的な「味の種」だ。
「アリシア、解毒スープの種を持ってるか」
「はい。少しだけ」
「シノ、卵黄の残りは」
「まだあります!」
「よし——その二つを混ぜ合わせろ。それから、エルム。お前の持ってる“飢餓の祠の野草”を少し分けてくれ」
「ああ。これが役に立つとはな」
俺はそれらを鍋に加え、最後に——無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ、祈るように振りかけた。岩塩は微量のミネラルを含み、味を引き出す力がある。虚無の祠でさえ存在の味を感じさせたこの塩が、今度は大地の味を呼び覚ますはずだ。
「“大地の目覚めスープ”だ。食え」
老人が最初に椀を受け取り、震える手でスープを一口すする。
——次の瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「……味が、する」
「どんな味だ」
「キャベツの甘み……ニンジンの土の香り……リンゴの酸味……それから、なんだこれは——」
「卵黄が全体をまとめ、薬草が清涼さを加えている。解毒スープの種が、味覚そのものを呼び覚ます効果もあるんだ」
「うまい——うまいぞ!」
老人は涙をぼろぼろとこぼしながら、スープをかきこみ始めた。それを見て、他の村人たちも次々にスープを受け取り、口に運ぶ。広場のあちこちで「味がする!」「うまい!」という声が上がり、泣き声と笑い声が混ざり合った。
「師匠、村人たちの顔が——」
アリシアが呟く。
「ああ。味が戻れば、生きる力も戻る」
やがて、老人が言った。
「カズマ様。このスープで確かに味は戻った。しかし——これは一時しのぎではないのか」
「ああ。根本的には、大地の味そのものを癒さなければならない」
「どうすれば」
俺はスープの残りを鍋からすくい、畑の土にそっとかけた。
「このスープには、味を呼び覚ます力がある。これを土に撒き、しばらく寝かせれば——土そのものが味を取り戻すかもしれない」
「そんなことが——」
「やってみなければわからん。だが、無味砂漠で塩を見つけた時も、虚無の祠で味を作った時も、俺は信じてやってきた。今回も信じるだけだ」
老人は深く頭を下げ、村人たちもそれに続いた。
その夜、俺たちは村の広場に野営を張った。
村人たちは総出でスープを土に撒き、明日からの復興を誓い合っている。エグゼビアとアルデは、美食教団時代の知識を活かして土壌の調査にあたっていた。
「カズマ殿。どうやらこの村だけの問題ではないようです」
エグゼビアが地図を広げる。
「西方の各地で、同様の“味枯れ”が報告されています。そして——その発生源は、どうやら一つではない」
「複数あるのか」
「はい。大地のあちこちから、味が消え始めている。まるで——大地の“舌”が死にかけているかのようです」
「大地の舌」
「はい。この世界の大地そのものに、味を司る何かがあるとすれば——それが今、傷ついている」
俺は空を見上げた。西方の空には、かすかに不気味な雲がかかっている。原初の飢餓を鎮めても、まだ世界の味は完全には戻っていない。大地の味そのものを癒す旅が、これから始まるのだ。
「明日は、次の村へ行くぞ」
「了解」
「ああ」
リリアが隣に座り、焼きおにぎりをかじりながら言った。
「大地の味を癒す料理、か」
「ああ。スープだけじゃ足りない。もっと色んな料理が必要になるだろうな」
「あんたなら、できるさ」
「なぜそう言い切る」
「今まで、できなかったことがないからだ」
トシが扇子を広げて笑った。
「大地の味かあ。それって、もしかすると——俺たち食神の本来の仕事かもしれないな」
「兄貴。西方の地で、俺たちもやるべきことがあるってことか」
「そうだな」
星の下で、一行は明日への備えを始める。味枯れの村を後に、さらに西へ——大地の味を癒すための旅が続く。
(第56話 終)
▼ 次回予告(第57話用の引き)
味枯れの村を発ち、さらに西へ進む一行。しかし、道中で出会った旅人たちが口々に言う。
「この先の山道に——“味を食う霧”が出る。霧に触れると、舌が麻痺して何も感じられなくなる」
(次話:「味を食う霧」)




