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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第59話「麦の祠」


果樹園の祠を発ってから南西へ三日、一行は広大な麦畑の跡地に立っていた。かつては黄金色の穂波が風に揺れていたであろうその場所は、今は荒れ果て、枯れた麦わらが折り重なって地面を覆っている。土はひび割れ、ところどころに生える麦は穂をつける前に枯れ果てていた。中央には果樹園と同じく古い石造りの祠が一つ、ひっそりと佇んでいる。


しかし祠の状態は果樹園よりずっと悪かった。壁には大きな亀裂が走り、穀物を象った浮き彫りは崩れ落ちかけている。祠の奥では、麦の精霊がかろうじて形を保っているが、果樹園の精霊よりはるかに衰弱し、その輪郭は今にも霧のように消え入りそうだった。


「ここまで衰弱しているとは」

エルムが杖を握りしめ、かすれた声で呟く。

「麦の味は、人間の主食の味。大地から味が枯れ始めると、最初に影響を受けるのかもしれぬ」

「精霊はまだ息があるか」

「かろうじて。でも——もう時間がない」


俺は祠の前に簡易竈を据え、持参した材料を並べた。麦を作るなら、将軍の粟粥やゴルドアの戦場パンの知識が活きるはずだ。しかし、ここにある材料だけでは麦料理は作れない。


「将軍、粟粥の乾燥した欠片をまだ持ってるか」

「ああ。旅の間、ずっと保存してあった」

「ゴルドア、戦場パンの粉の残りは」

「少しだけ残っている」

「よし——それを使う」


俺は将軍の粟粥の欠片とゴルドアの戦場パンの粉を、少量の水と岩塩で練り合わせ、小さな団子を作った。それを祠の前に積まれた枯れ麦わらで燻し、香ばしさを引き出す。麦わらは枯れているが、まだかすかに麦の香りが残っていた。


「これは——“麦の記憶の団子”だ。この祠の周りにまだ残る麦の香りと、将軍とゴルドアが旅の中で培ってきた麦の味を合わせている。本物の麦がなくても——麦を想う味は作れる」


団子を小さくちぎり、精霊の前に供える。湯気と共に立ち上る香ばしさが、祠の奥に広がった。


——次の瞬間、精霊の輪郭がかすかに震えた。


「……麦の、香り」

声は風の音のようにか細く、消え入りそうだったが、確かに響いた。

「久しぶり。麦の香り。誰かが——麦を想ってくれた」

「ああ。ここには麦そのものはない。でも、麦を大切に思う者がいる。その想いが、お前を呼び覚ます」

「……ありがとう。もう少しだけ——頑張れる」


精霊は団子を胸に抱き、かすかに光を放ち始めた。果樹園のような急激な復活ではない。しかし——亀裂の入った祠の壁が、少しずつ修復され始め、枯れ果てた麦わらの下から、新しい緑の芽が一本、顔を出す。


「——祠が、少しだけ癒えた」

エルムが壁に手を触れて言った。

「完全ではない。だが——これで時間は稼げる」

「ああ。あとは精霊自身の力で回復していくだろう」


ゴルドアが祠の前に跪き、自分の戦場パンの粉をほんの少し地面に撒いた。

「これは——私の糧食の最後の粉だ。戦場で仲間と分け合った、最後のパンの名残。お前に捧げる」

「ゴルドア——」

「麦は、命そのものだ。それを守る精霊がいるなら——惜しみはしない」


将軍もまた、粟粥の欠片を少しだけ祠の祭壇に供えた。

「私もだ。これは——私が初めて自分の手で作った粥の、最初の一粒だ。お前に預ける」

「将軍まで」

「構わぬ。粥はまた作ればいい。それに——これは、お前たちと共に旅した証でもある」


精霊は二人の捧げものを受け取り、光が少し強まった。祠の周囲の土が、かすかに潤いを取り戻し始めている。枯れ麦わらの中で、新しい芽が二本、三本と顔を出した。


「麦の味は——時間をかけて戻るだろう」

エルムが地図を広げて言った。

「これで西方の二つ目。残るはこの地方の最後の祠——“香草の祠”だ。香草は料理に香りと清涼感を与える、重要な味の要素です」

「香草か。エレナからもらった薬草や、アリシアの解毒スープの材料に通じるものがあるな」

「ああ。その経験が活きるだろう」


麦の祠の周りで野営を張りながら、トシが静かに言った。

「なあ、カズマ。これで祠を二つ癒した。でも——だんだん精霊たちの衰弱がひどくなってる」

「ああ。麦の精霊は、果樹園の精霊よりずっと弱っていた」

「次の香草の祠も、同じかもしれない。そして——北方、東方へ進むほどに、精霊たちはもっと苦しんでいるかもしれない」

「それでも、癒すだけだ。できることを、一つずつ」


グーラが焚き火を見つめながら静かにうなずいた。

「我がかつて味を歪めたせいで、精霊たちは余計に苦しんだのかもしれぬ。だとしたら——」

「兄貴」

「わかっている。後悔ではない。償いだ。これからも、祠を癒し続ける。それだけだ」


リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。

「香草の祠か。香りを司る精霊なら——どんな料理で目覚めるんだろうな」

「香りを最大限に活かした料理だろう。薬草スープか、柑橘の香りを閉じ込めた何かか——」

「あんたなら、きっと作れるさ」

「なぜそう言い切る」

「今まで、できなかったことがないからだ」


シノとアリシアは、早速香草について話し合いながら、自分たちにできることを模索している。喪犬が祠の周りを散歩し、シロガネとクロがその後を追い、ガルムが静かに見守っていた。


「よし、明日は香草の祠へ向かうぞ」

「了解」

「はい!」


一行は枯れかけた麦畑の片隅で、新しい芽の息吹を感じながら、静かに夜を過ごした。


(第59話 終)


▼ 次回予告(第60話用の引き)


西方最後の祠“香草の祠”は、かつては香り高い薬草が生い茂る場所だった。しかし今はすべての香草が枯れ果て、精霊は消え入りそうな声で呼びかけている。

「香りを——もう一度、私に香りを」

カズマは持参した柑橘と薬草を使い、香りを最大限に閉じ込めた一皿を作り始める。

(次話:「香草の祠」)

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