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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第50話「喪失の祠」



痛みの祠を発ってから、一行はさらに北へと進んでいた。岩山は次第に低くなり、かわりに深い霧が谷間を埋め尽くすようになる。霧は冷たく、肌にまとわりつき、視界をわずか数歩先までに制限していた。


「この霧——おかしい」

リリアが弓を握りしめて言った。

「エルフの目でも、ほとんど見通せない」

「喪失の祠が近いからだ」

エルムが静かに答える。

「この霧は——“喪失の霧”。祠の力が、訪れる者の失ったものを映し出す」


ギリアムが眉をひそめる。

「失ったものを映す、だと」

「ああ。気をつけろ。霧の中で——お前たちは、それぞれの喪失と向き合うことになる」


一行は無言で霧の中を進んだ。足元はぬかるみ、冷たい空気が肺を刺す。そして——


ふと、リリアが立ち止まった。

「……森が、見える」

「森?」

俺には何も見えない。しかし、リリアの目は見開かれ、遠くの霧を見つめている。

「私の故郷の森……エルフの里が、燃えている。ちがう、あれは——」

「リリア、それは幻だ」

「わかってる。でも——」

彼女の声は震えていた。

「里を離れてから、一度も帰れなかった。もう、みんな散り散りになって——」


俺はリリアの手を握った。

「幻だ。だが、お前の喪失は本物だ」

「……ああ」

「ここにいろ。俺たちはここにいる」

「……ありがとう」


次に立ち止まったのは、シノだった。

「母さん——」

霧の中に、ぼんやりと人影が浮かんでいる。痩せた女が、優しい笑みを浮かべて立っている。手には包丁が握られていた。

「母さん、俺——俺、卵かけご飯、作れるようになったんだ。見てほしかった——」

「シノ、幻だ」

「わかってます。でも——母さんの顔、忘れかけてた。霧が見せてくれた」

「そうか」

「ありがとう、母さん。俺、ちゃんと料理人になるから」


シノが涙をぬぐい、人影は霧に溶けた。


アリシアは——声を上げなかった。ただ立ち止まり、じっと霧の中の一点を見つめている。そこには——毒で爛れた、かつての自分の顔が浮かんでいた。

「私は——あの顔を失った。でも、それでよかったのか。毒の痕が消えても、あの苦しみを忘れていいのか」

「忘れなくていい」

俺は言った。

「苦しみも、喪失の一部だ。それを乗り越えたから、今のお前がある」

「師匠——」

「あの顔は、お前の過去だ。過去を失う必要はない。ただ、今のお前も、同じくらい大切にしろ」

「……はい」


アリシアがうなずくと、爛れた顔の幻は静かに消えていった。


ゴルドアとマクシミリアンもまた、それぞれの幻影を見ていた。ゴルドアの前にはかつての戦友の姿が、マクシミリアンの前には——母の幻影が、粥の鍋を手にして立っている。


二人は無言でそれを見つめ、深く一礼した。

「さらばだ——古き戦友よ」

「母上——私は今、粥を作れます」

二人の幻影は、静かに霧に溶けていった。


俺の前にも——幻影が現れた。


母さんだった。前世の母。痩せた顔、くたびれた着物。でも、手には湯気の立つ味噌汁が握られている。

「……久しぶりだな」

「お前は——料理人になれたんだな」

「ああ。人に毒を盛る代わりに、飯を食わせてる」

「よかった」

「母さんの味噌汁が、俺の原点だ。でも——俺はもう、あの味を再現できない。俺の味噌汁は、俺だけのものになった」

「それでいい。それが、生きるということだ」

「……ありがとう」


母の幻影は微笑み、霧に消えた。




祠の入口は、霧の最深部にぽっかりと口を開けていた。周囲の岩は涙の跡のような黒い染みに覆われ、奥からは低く、悲しげな唸り声が聞こえてくる。


「ここが喪失の祠」

エルムが杖を突き、声を潜めた。

「中に棲む獣は——“喪犬”。失ったものに固執し、手放せずに苦しみ、その苦しみで訪れる者を縛ろうとする」

「手放せずに」

「ああ。喪犬自身が、かつて何かを失い、それを受け入れられずに飢餓の欠片に取り憑かれたのだろう」


祠に入ると、そこは驚くほど静かだった。闇の奥で、一匹の犬がうずくまっている。痩せ細り、毛は抜け落ち、肋骨が浮き出ている。首には——古びた革の首輪が巻かれていた。飼い主のものだろうか。それを失ってから、どれほどの年月が経ったのか。


喪犬は顔を上げ、こちらを見た。その目は悲しみに潤み、飢えよりも深い喪失の色が滲んでいる。唸り声はなく、ただ——かすかな鳴き声だけが祠に響いた。


「こいつは——攻撃してこない」

ギリアムが剣を下ろす。

「ああ。悲しんでいるだけだ」

リリアが弓を緩める。


俺は背負った包みを解き、最後の材料を取り出した。米はもうない。味噌も使い切った。醤油と梅干しは少しだけ。柚子は使い切り、干し杏も残りわずか。でも——まだ残っているものがある。


無味砂漠の岩塩。そして——エルムが祠への旅の途中で見つけた、野草の数々。それから、アリシアがずっと大切に持っていた柚子の種。


「師匠、それ——」

「料理は材料だけじゃない。想いも、思い出も、食材になる」

俺は鍋に湯を沸かし、野草を刻んで入れた。岩塩をほんのひとつまみ。柚子の種をすりつぶして、ほのかな香りを加える。それから——最後の梅干しを、種ごと鍋に落とした。


「“思い出の野草粥”だ。具はほとんどない。でも——」


喪犬の前に鍋を差し出すと、犬はおずおずと舌を伸ばした。一口、二口——そして、目が大きく見開かれた。


「……ワン」

「思い出したか。お前がかつて、誰かと一緒に食った飯の味を」

「……クゥン」

「手放さなくていい。喪失は、思い出に変えられる。お前が大切にしているその首輪も——なくしてはいけない。ただ、それを持ったまま、前に進める」


喪犬は鍋を平らげ、それから——首輪にそっと鼻を寄せ、目を閉じた。その目から、涙が一滴だけこぼれ落ちる。失ったものを悼み、それでも受け入れた証だった。


「——封印が、強まった」

エルムが祠の壁に手を触れ、深く息を吐く。

「これで四つ目。残るは——虚無の祠だけだ」

「最後の祠か」

「ああ。しかし——虚無は、喪失とは違う。虚無は“何もない”ことだ。何もない者に、何を与えればいいのか」


俺は答えなかった。何もない者に——何を料理すればいいのか。まだ、答えは見つからない。だが、旅を続ければ、きっと見えてくるはずだ。


「いったん、外で野営を張るぞ。虚無の祠へは、それからだ」

「了解」

「ああ」


祠を出る時、喪犬が立ち上がり、俺たちの後ろを静かについてきた。逃げもせず、唸りもせず、ただ——新しい群れを見つけたかのように、一定の距離を保って歩いてくる。ガルムが振り返り、鼻先を寄せ合った。飢餓の欠片を宿した者同士の無言の対話が、かすかに聞こえた気がした。




野営の焚き火を囲みながら、俺は虚無の祠のことを考えていた。


「虚無、か」

トシが扇子を閉じて言った。

「何もない。それが一番の苦しみかもしれない」

「ああ」

「でもな——お前は、何もない場所に味を作り出してきた。無味砂漠で塩を見つけたみたいに」

「何もない場所にも、味はある。俺はそう信じてる」

「なら、それでいいさ」


グーラが静かに口を開いた。

「虚無は——我がかつて、味を極めすぎて堕ちた時に見た境地だ。何も味わえなくなった時に、それでもなお、味を求め続ける苦しみ。しかし——」

「しかし」

「お前の料理は、我をそこから救った。虚無に陥った者を救える料理があるとすれば——それは、誰かのために作られた料理だけだ」


「そうか」

俺は焚き火を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。

「誰かのために作ること——それが虚無に対抗する唯一の方法なら、俺はそれをする。ずっと、そうしてきた」


リリアが隣に座り、焼きおにぎりの残りをかじりながら言った。

「あんた、いつもそれだよな」

「なにが」

「誰かのために、料理を作る。それだけだ」

「それだけで十分だろ」

「ああ。十分だ」


喪犬が焚き火のそばで伏せ、静かに尾を振っている。シロガネとクロがその背に寄り添い、ガルムが見守っていた。


「明日は——虚無の祠だ」

俺は全員を見渡して言った。

「最後の祠を鎮めれば、いよいよ飢餓の神殿だ。みんな、それぞれの思い出と、それぞれの味を忘れるな」

「ああ」

「はい!」


一行は焚き火を囲み、それぞれの喪失と、それを乗り越えた温かい思い出を胸に、明日への備えを始めた。


(第50話 終)




▼ 次回予告(第51話用の引き)


四つの祠を鎮め、一行はいよいよ最後の祠——“虚無の祠”へと向かう。そこには、いかなる獣も棲んでいないという。ただ虚無だけが広がり、訪れる者の心を無に帰そうとする。

「何もない者に——俺は何を作ればいい」

(次話:「虚無の祠」)

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