第49話「痛みの祠」
渇きの祠を発ってから二日、一行はさらに北へと歩みを進めていた。荒野はやがて切り立った岩山へと変わり、細い断崖沿いの道が続く。足を踏み外せば奈落の底——そんな道を、冷たい北風が吹き荒んでいた。
「この風、痛いな」
リリアが顔をしかめる。風に乗って飛んでくる細かな氷の粒が、肌を刺すのだ。
「もうすぐ痛みの祠だ。祠の力が、このあたり一帯の空気を痛みに変えている」
エルムが杖をつきながら言った。
「痛みそのものが空気に——か」
ギリアムが大剣を担ぎ直しながら呟く。
「笑えんな」
「ああ。だが——進むしかない」
アリシアとシノは互いに励まし合いながら歩いている。二人とも唇が乾き、頬は風で赤くなっていたが、文句ひとつ言わなかった。ゴルドアとマクシミリアンは無言で先頭と最後尾を守り、ガルムとシロガネ、クロは気配を消して周囲を警戒している。
やがて、断崖の先に祠が見えてきた。岩山の裂け目に作られた横穴で、周囲の岩は赤黒く染まっている。近づくほどに、祠の奥から聞こえる唸り声が大きくなった。それは苦痛に満ちた声——飢えや渇きとは別の、もっと直接的な苦しみの声だった。
「ここが痛みの祠」
エルムが言い終わらぬうちに、祠の奥から巨体が姿を現した。
それは熊だった。ただし、全身が傷だらけで、毛皮は剥がれ落ち、皮膚には無数の裂け目が走っている。傷口からは血ではなく、どす黒い痛みそのものが滲み出ているようだった。目は苦痛に濁り、口からは折れた牙が覗いている。
「——来るぞ!」
ゴルドアが叫ぶと同時に、痛みの熊が突進してきた。その一撃をゴルドアが盾で受け止めるが、衝撃で彼の腕が軋み、苦痛の声が漏れる。
「ぐっ……この痛み、ただの打撃じゃない。触れるだけで痛みが伝わってくる!」
「マクシミリアン、右から!」
「ああ!」
マクシミリアンが大剣で熊の脇腹を斬りつけるが、傷口から噴き出した黒い痛みが彼の腕に絡みつき、顔を歪ませる。
「これでは、攻撃するほどこちらが痛む!」
「リリア、目を狙え!」
「了解!」
リリアの矢が熊の目の際をかすめ、ひるんだ隙にギリアムが大剣で熊の足を払った。巨体が崩れ、地面に伏せる——が、それでも熊は痛みに唸りながら起き上がろうとしている。
俺はその隙に、簡易竈で火を起こし、鍋に湯を沸かし始めた。材料は限られている。米はあとわずか。味噌も少しだけ。干し杏と柚子の残り——それから、エレナからもらった薬草の包み。
「薬草……解熱と鎮痛の効果がある」
俺は包みを開き、乾燥した薬草を取り出した。エレナが毒味役時代に集めた、痛みを和らげる薬草だ。それを細かく刻み、湯に浸す。ほのかに甘い、薬草特有の香りが立ち上った。
それから、最後の米を少しだけ研いで鍋に加える。味噌はほんのひとさじ。柚子の皮をすりおろして加え、干し杏を刻んで甘みを足す。できあがったのは——とろりとした、薬草粥だった。
「“鎮痛の薬草粥”だ。食え」
痛みの熊は、苦痛に歪んだ目で鍋を見つめた。全身が傷だらけで、動くたびに痛みが走るはずなのに——それでも、粥の香りが、かすかに熊の動きを止めた。
「食え。痛みは、温かい飯で少しだけ和らぐ」
熊はおずおずと粥に舌を伸ばし、一口舐めた。
——次の瞬間、熊の全身が震えた。傷口から滲み出ていた黒い痛みが、かすかに薄れ始める。
「……ゥ、ゥゥ……」
唸り声が、戸惑いの声に変わった。
「『温かい。腹の奥が温かい。痛みが——少しだけ、遠くなった』」
トシが通訳した。
「ああ。痛みは消えなくても、温かい飯で少しだけ和らぐ。それだけのことが、生きる力になる」
俺はもう一杯、粥を差し出した。
「もっと食え。お前の痛みは、お前だけのものじゃない。ここにいる全員が、痛みを知っている」
熊は二杯目、三杯目と粥を平らげ、やがて——静かに伏せた。傷だらけの体からはまだ痛みが滲んでいるが、その目は澄んだ金色に変わっている。苦痛に支配されていた獣が、初めて安らぎを得た顔だった。
「——封印が、強まった」
エルムが祠の壁に手を触れて言った。
「これで三つ目。残る祠は——喪失と虚無」
「喪失と虚無」
「ああ。痛みが和らいだ後に、人は喪失を知る。そして最後に——虚無が待つ」
ガルムが熊に近づき、鼻先を寄せ合った。
「痛みは——私も知っている」
トシがガルムの言葉を通訳する。
「飢えとは痛みそのものだ。お前の痛みも、いつか癒える」
熊は無言で目を閉じ、祠の奥へと戻っていった。
祠の傍らで野営の準備をしながら、リリアが言った。
「あと二つ、か」
「ああ」
「喪失の祠——どんな獣がいるんだろうな」
「さあ。でも——喪失を満たすには、何が必要だろうな」
「……思い出、かもな」
「思い出」
「ああ。何かを失った者は、その思い出だけで生きていることがある。料理で思い出を呼び覚ませれば——」
「いい考えだ」
アリシアが小さく手を挙げた。
「師匠。私——解毒スープを作る時に、毒に苦しんだ日々を思い出しました。辛かったけど、それを乗り越えたから、今の私がある。喪失も——乗り越えられる」
「ああ。お前のその経験が、次の祠で役に立つかもしれない」
「私にできることなら、なんでも」
シノも包丁を握り直して言った。
「俺、母さんを亡くした時——悲しかったけど、母さんの包丁で料理を作るたびに、母さんを思い出せます。喪失は——思い出に変えられる」
「そうだな。それが料理の力だ」
ゴルドアが焚き火を見つめながら言った。
「私は千年間、戦神に仕えるだけの存在だった。しかし——お前の料理を食って、かつて人間だった頃の自分を思い出した。あれもまた、喪失だったのかもしれぬ」
「取り戻せたか」
「ああ。今は——人間として、ここにいる」
マクシミリアンも静かにうなずいた。
「私もだ。母の粥の味を思い出し、それを自分の手で作れるようになった。喪失は——終わった」
トシが扇子を広げて言った。
「次の祠、喪失を司る獣——料理で思い出を呼び覚ませれば、鎮められるかもしれないな」
「ああ。そのつもりだ」
俺は残りの材料を確かめる。米はほぼ底をついた。味噌もあとわずか。醤油と梅干しはまだ少しある。薬草も残っている。Deliveryはまだ復旧しない。この限られた材料で、喪失の獣を鎮める料理を作らなければならない。
だが——それこそが、料理人としての腕の見せ所だ。
「よし、明日は喪失の祠を目指す。今日はしっかり休め」
「了解」
「ああ」
一行は焚き火を囲み、それぞれの喪失と、それを乗り越えた思い出について語り合いながら、静かに夜を過ごした。
星空の下、俺は次の料理の構想を練り始める。喪失を鎮める料理——それは、食べた者が「失ったもの」を思い出し、それでも「今ここにあるもの」に気づけるような、そんな一皿であるべきだ。
(第49話 終)
▼ 次回予告(第50話用の引き)
四つ目の祠“喪失の祠”への道中、一行は奇妙な霧に包まれた。霧の中では、それぞれが失ったものの幻影が現れる——母の姿、家族の声、故郷の風景。
「これは——俺たちの喪失を映す霧だ」
祠の奥で待つ獣は、失ったものに固執し、手放せずに苦しんでいた。
(次話:「喪失の祠」)




