第48話「渇きの祠」
飢えの祠を発ってから三日、一行はさらに北へと歩を進めていた。灰色の岩山は次第に茶色い荒野へと変わり、空気は冷たいのに奇妙なほど乾いている。唇がひび割れ、喉がかわき、肌から水分が奪われていくのがわかった。
「水が、もう少ない」
リリアが自分の水筒を振りながら言った。
「こっちもだ。あと半日分もたない」
ギリアムも水筒を逆さにして眉をひそめる。
旅の水は、基本的に異世界デリバリーで補給していたのだが——このあたりに来てから、Deliveryの調子が悪くなっていた。注文しても商品が届かず、エラーメッセージのようなものすら出ない。まるで、この土地そのものが異世界との繋がりを拒絶しているかのようだった。
「原初の飢餓の力が強まっているからだ」
エルムがかすれた声で説明した。
「封印の近くでは、異世界との接続が不安定になる。Deliveryはしばらく使えんと思え」
「となると、あるのは持参した食材だけか」
「ああ。あと二日分の干し肉と硬パン、少しの米と味噌だけだ」
「節約しないとな」
アリシアが自分の水筒を差し出した。
「師匠、私はまだ十分にあります。どうぞ」
「いや、お前が飲め。喉がかわいたら料理に集中できない」
「しかし——」
「私のを少し分けよう」
マクシミリアンが自分の水筒を置いた。
「将軍として、渇きの行軍は慣れている」
「すまない」
ゴルドアも無言で水筒を差し出し、トシとグーラは神なので水分が必要ないらしく、平然と歩いている。シロガネとクロはさすがに喉がかわくようで、時折岩陰に残ったわずかな雪を舐めていた。
「渇きの祠はまだか」
「もうすぐだ」
エルムが前方を指す。見ると、荒野の真ん中に、ひと際大きな岩の塊があった。それは人工的に積まれたようにも見えるが、よく見ると自然の岩が組み合わさって洞窟のようになっている。周囲の地面はひび割れ、かすかに湯気のようなものが立ち上っていた。
「あれが渇きの祠。水を拒絶する獣——“砂漠蜴”が棲んでいる」
「砂漠蜴」
「巨大な蜥蜴だ。体長は馬ほどもあり、皮膚からは水分を奪う鱗粉を撒き散らす。近づくだけで喉がかわき、最終的には立っていることもできなくなる」
俺は荷物の中を見渡した。水を拒絶する獣——なら、水以外の「飲み物」で満たす必要がある。ポン酢では喉は潤わない。味噌汁は水を使うから、節約したい。
「……果物はあるか」
「果物ですか」
シノが包みを探る。
「干し杏なら、少しだけ」
「それだ。それと——柑橘の残りは」
「少しだけなら」
アリシアが小さな布袋を取り出した。中には、王都を発つ前に市場で仕入れた柚子が二つ、まだかろうじて新鮮な状態で残っている。
「よし——それで行く」
祠の入口に近づくと、空気がさらに乾いた。息をするだけで喉が焼けるようだ。リリアが咳き込み、ギリアムが顔をしかめ、ゴルドアとマクシミリアンもさすがに歩みが遅くなる。
祠の中から、ずるりと何かが這い出してきた。
それは巨大な蜥蜴だった。鱗は乾ききって灰色にひび割れ、目は渇きに濁った黄色。口からは細かい砂がこぼれ落ち、尾を引きずるたびに地面が乾いていく。砂漠蜴——その存在だけで、周囲の水分が奪われていくのが感じられた。
「——来るぞ!」
ゴルドアが前に出て、砂漠蜴の突進を受け止めた。巨体同士の衝突に地面が揺れる。しかし、接触したゴルドアの腕から、みるみる水分が奪われ、皮膚が乾いていく。
「くっ……このままだと、干からびる!」
「マクシミリアン、ゴルドアを下げろ!リリア、矢で動きを止めろ!」
「了解!」
リリアの矢が砂漠蜴の尾を地面に縫い止め、マクシミリアンがゴルドアを引きずって下がらせる。ギリアムが大剣で正面から威嚇し、獣の注意を引きつけた。
俺はその隙に、簡易竈で火を起こし、小さな鍋をかけた。水は使わない。鍋に入れたのは——干し杏と、柚子の絞り汁だけだった。
干し杏を柚子の果汁で戻し、とろ火でじっくりと煮詰めていく。水分は最小限。代わりに、果物自身の甘みと酸味が凝縮され、とろりとした蜜のような液体が鍋底にたまり始めた。
さらに——俺は小さな包みから、無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ加えた。塩は喉の渇きを癒す成分を含んでいる。それに、甘みと酸味を引き立てる効果もあった。
「なあ、それ——何になるんだ」
トシが興味深そうに覗き込む。
「果物の蜜だ。水じゃない。飲み物ですらない。でも——喉の渇きを癒すものだ」
「水以外で渇きを癒すのか」
「ああ。昔、砂漠を渡る商人たちは、果物の蜜で喉を潤した。水がない場所でも、果物があれば生きていける」
鍋の中の液体は、琥珀色に輝き、とろりと濃厚な香りを放っていた。
俺は小さな椀にそれを注ぎ、砂漠蜴の前に差し出した。
「食え——いや、飲め」
砂漠蜴の濁った目が、椀を見つめる。喉が渇いているのに、水を拒絶する獣——その矛盾に苦しむ獣が、ゆっくりと舌を伸ばした。
蜜が、砂漠蜴の口の中に消える。
——次の瞬間、砂漠蜴の全身が震えた。
「……ギ、ャ……」
かすれた鳴き声が、祠に響く。それは苦痛の声ではなかった。驚きの声だった。
「『なんだこれは。喉が——潤う。水じゃないのに、渇きが癒える』」
トシが通訳した。
「果物の蜜だ。水がない場所でも、生きるための知恵だ」
俺はもう一杯、蜜を差し出した。
「もっと飲め。お前の渇きは、水以外でも癒せる」
砂漠蜴は夢中で蜜を舐め取り、やがて——静かに伏せた。その灰色の鱗が、少しずつ色を取り戻し、濁った目が澄んだ金色に変わっていく。
「——封印が、強まった」
エルムが祠の壁に手を触れて言った。
「砂漠蜴が鎮められたことで、渇きの祠の飢餓の力が弱まった。これで二つ目だ」
ガルムが近づき、砂漠蜴と鼻先を寄せ合った。同族ではないが、同じ飢餓の欠片を宿した者同士、何か通じ合うものがあるらしい。
「次の祠は」
俺は竈を片付けながら尋ねた。
エルムは地図を広げ、少し沈黙してから言った。
「次は——“痛みの祠”。読んで字のごとく、痛みを司る獣が待っている」
「痛みを司る獣」
「ああ。飢え、渇き、痛み——飢餓はただの空腹ではない。あらゆる苦痛を含んでいる。それを鎮めるには——」
「料理で痛みを和らげるしかないな」
リリアが呆れた顔で言った。
「料理で痛みが和らぐのか」
「和らぐ。温かい飯を食えば、痛みは少しだけ遠くなる。それだけのことが、生きる力になる」
「……あんたらしいな」
祠の近くで野営を張りながら、俺は砂漠蜴が巣穴に戻るのを見送っていた。砂漠蜴は祠の奥で丸くなり、先ほどの飢狼と同じように、封印の欠片を守るように眠り始める。
「あと三つ」
トシが隣に座った。
「飢え、渇き、痛み、喪失、虚無——人間の苦しみの順番か。兄貴が言ってた通りだ」
「ああ」
「で、全部の祠で料理を作って封印を強化して、最後に神殿で“味の核”を捧げる。それで原初の飢餓は鎮まるのか」
「わからん。でも——それしか道はない」
「だな」
トシは扇子を広げた。新しい絵は、五つの祠と中央の神殿を描いたものになっている。
「なあ、カズマ。全部の祠を回ったら、お前の料理はどうなるんだ」
「どうなるとは」
「世界中の味を集めて、あらゆる苦しみを鎮める料理を作ったら——お前の舌は、神を超える。そうしたら、お前はもう人間じゃなくなるかもしれない」
「それでもかまわん」
「なぜ」
「俺は料理人だ。料理人が料理を作るのは当たり前だ。人間だろうが神だろうが、関係ない」
「……そうか」
トシは少しだけ笑って、扇子を閉じた。
シノとアリシアが蜜の残りを味見しながら、次の祠のための料理を相談している。ゴルドアとマクシミリアンは、乾いた喉を蜜で潤しながら、次の戦いに備えて鎧を整えていた。リリアは弓の弦を張り替え、ギリアムは大剣の刃を研いでいる。
グーラが静かに焚き火を見つめ、シロガネとクロが寄り添い、ガルムが遠くの星空を眺めている。
俺は背負った包みを確かめる。米、味噌、醤油、梅干し、干し杏、柚子——残りの材料は少ない。次の祠まで、Deliveryはまだ復旧しないかもしれない。
それでも——やることは変わらない。限られた材料で、誰かの苦しみを鎮める料理を作る。それが、屋台シェフの仕事だ。
(第48話 終)
▼ 次回予告(第49話用の引き)
三つ目の祠“痛みの祠”へ至る道は、岩山を縫う細い断崖だった。冷たい風が吹き荒ぶ中、一行は祠の入口に立つ。
中から聞こえるのは、苦痛に満ちた唸り声。そこに棲む獣は——全身が傷だらけの巨大な熊だった。
(次話:「痛みの祠」)




