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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第47話「飢えの祠」



北へ向かう街道は、五日目には完全に途絶えた。舗装された道は消え、かわりに獣道が岩場を縫うように続いている。空気は冷たく乾き、時折吹く北風が耳鳴りのような音を立てていた。緑はすでにほとんどなく、灰色の岩と茶色い枯れ草だけが地平線まで続いている。


「この先だ」

エルムが杖で前方を指した。痩せた指の先には、岩山の斜面にぽっかりと口を開けた黒い横穴が見える。周囲の岩は煤のように黒ずみ、穴の周囲だけ植物が完全に死に絶えていた。風がその穴を通り抜けるたび、低くうなるような音が響いてくる。

「これが最初の祠——“飢えの祠”だ」


一行は息を呑んだ。祠の奥からは、唸り声が聞こえている。風の音ではない。獣の声だ。空腹で、苦しみに満ちた、それでいて凶暴な唸り声だった。


「祠の中に、飢餓の欠片を宿した獣がいる」

エルムが続ける。

「名を——“飢狼”。ガルムの同族だが、より小さく、しかしより凶暴だ。飢えに完全に支配され、見るものすべてを喰らおうとする」

「俺の同族か」

ガルムが低く唸った。トシの通訳越しだが、その声には確かな緊張が混ざっている。

「同じ飢餓の欠片から生まれながら、私は味を教えられ、満たされた。しかし——こいつはまだ、味を知らない」

「なら、教えるまでだ」


俺は背負った包みを解き、携帯用の小型竈を取り出した。旅用に改造した七輪で、炭火を起こせる簡易のものだ。

「アリシア、シノ。水と鍋を」

「はい!」

「リリア、ギリアム、ゴルドア、マクシミリアン——あの獣が飛び出してきたら、時間を稼げ。殺すな」

「了解」

「任せろ」


祠の入口に立つと、飢狼の唸り声が一層大きくなった。奥の闇から、黄色く光る二つの目がこちらを見つめている。


「——来るぞ」

ゴルドアが身構えた瞬間、飢狼が闇から飛び出してきた。


それはガルムより二回りほど小さく、痩せ細った狼の姿をしていた。黒い毛は抜け落ち、骨が浮き出た体は震えている。口からは飢餓の唾液が滴り、地面に落ちると石がじゅわと溶けた。しかし——その目だけは、苦痛に満ちながらも、かすかに何かを求めているように見えた。


ゴルドアが正面から飢狼を受け止め、両腕でその顎を押さえ込む。飢狼の牙が彼の肩をかすめ、鎧の隙間から血が滲んだが、彼は微動だにしなかった。

「早くしろ、カズマ!」

「ああ!」


マクシミリアンが横から飢狼の胴に組みつき、動きを封じる。ギリアムが大剣を地面に突き立て、狼の尻尾を押さえ、リリアが矢をつがえたまま見張りに立つ。


俺は竈に火を入れ、鍋に湯を沸かし始めた。作るのは——粥でも焼きおにぎりでもない。飢餓の欠片が相手なら、必要なのは「味を教える」ことだ。


「アリシア、解毒スープの出汁を少し」

「はい」

「シノ、卵黄を準備しろ」

「わかりました!」


俺は異世界デリバリーから取り寄せた鶏肉の挽き肉を、熱した鍋でさっと炒める。香ばしい脂の匂いが祠の周囲に広がり、飢狼の動きが一瞬止まった。それから無味砂漠の岩塩をひとつまみ、カジカの村で仕入れた乾燥山菜を戻して加える。最後に、持参した味噌を溶き、豆腐を手で崩しながら入れて——「寄せ鍋風味噌汁」の簡易版を作り上げた。


「できた——“即席寄せ鍋汁”だ。材料は少ないが、味は本物だ」


アリシアの解毒スープの柑橘が香り、シノの卵黄が汁に溶けて濃厚な旨味を加える。湯気と共に立ち上る匂いは、この荒涼たる岩場に不釣り合いなほど豊かだった。


俺はその鍋を、ゴルドアたちに押さえつけられた飢狼の前に差し出した。

「食え」


飢狼の黄色い目が、鍋を見つめる。唸り声が、かすかに揺らいだ。それは空腹の苦痛から——ほんの少しだけ別の感情に変わったように聞こえた。

「食え。お前は飢えているだけじゃない。味を知らないだけだ」


飢狼はおずおずと鍋に鼻を近づけ、汁を一口舐めた。


——次の瞬間、飢狼の全身が硬直した。


「……ヴ、ウゥ……」

唸り声が、戸惑いの声に変わる。黄色かった目が、かすかに金色を取り戻し始めていた。飢狼はもう一口、今度は鶏肉の挽き肉を口に含み、豆腐をかじり、山菜を噛みしめる。そのたびに目の色が変わり、痩せ細った体から少しずつ力が抜けていった。


「……味が、する」

トシが通訳した。彼の声は、いつもより静かで、どこか感慨深げだ。

「『これは何だ。腹の奥が温かい。苦しくない。これが味なのか』——そう言ってる」


「そうだ。それが味だ」

俺は鍋を地面に置き、一歩下がった。

「もっと食え。お前の飢えは、味で鎮まる」


飢狼はガツガツと鍋にむしゃぶりつき、あっという間に完食した。空になった鍋を舐め回し、それから——どさりと地面に伏せた。飢餓の唾液は止まり、黄色かった目は静かな金色に変わっている。ガルムがかつてそうだったように——飢えを鎮められ、味を知った獣の目だった。


「……終わったのか」

リリアが矢を下ろしながら言う。

「ああ。もう大丈夫だ」


ゴルドアが飢狼から手を離し、マクシミリアンとギリアムも組み伏せを解いた。飢狼は逃げ出さず、静かにその場に伏せている。


ガルムがゆっくりと近づき、飢狼の鼻先に自分の鼻を寄せた。二匹の飢餓の獣が、無言で何かを交わしている。

「『味を教えてくれた者に従う。お前もか』——ガルムがそう言ってる」

トシが通訳した。

「『ああ。あの人間の料理は——俺たちを飢えから救う』」

「……そうか」


飢狼は立ち上がり、祠の奥へと消えていった。封印の欠片を守るように、その身を横たえる。


エルムが祠の壁に手を触れ、うなずいた。

「——封印が、少しだけ強まった。祠の飢餓の力が、鎮められた証拠だ」

「よかった」

「だが——これはまだ最初の祠に過ぎぬ。あと四つ、祠がある」

「わかってる」


俺は鍋を片付けながら、飢狼が消えた闇を見つめた。祠の奥には、封印の欠片が祀られているという。まだ見ぬ原初の飢餓の欠片——いつか神殿で出会うそれに、俺は何を捧げるべきなのか。


「ガルム」

「……なんだ」

「今の同族の反応、お前はどう見た」

「飢えは苦痛だ。しかし——味は救いだ。あいつは今、初めて救われた。私と同じようにな。神殿の主もまた——飢えているだけなのかもしれない」

「そうかもしれない」




祠の傍らに野営の準備を整えながら、リリアが言った。

「最初の祠はうまくいったな」

「ああ。でも、まだ四つある」

「次の祠はどんな相手なんだ」

エルムが地図を広げて答えた。

「次は——“渇きの祠”。飢えと渇きは表裏一体。そこでは水を拒絶する獣が待っている。水ではなく、別の何かで満たされなければならない」

「別の何か」

「私にもわからん。ただ——飢餓は空腹だけではない。乾きもまた、飢えの一部だ」


俺はしばらく考えてから、包みの中の材料を見渡した。水を拒絶する獣——なら、水以外の飲み物で満たす必要がある。ポン酢か、味噌汁か、それとも——。


「まあ、その時に考える。今は休め」

「そうだな。明日も歩くぞ」


一行は焚き火を囲み、それぞれが身体を休める。シノとアリシアは早速、今日の料理の復習を始め、ゴルドアとマクシミリアンは飢狼との戦いで傷んだ鎧の手入れをしている。ギリアムは大剣を研ぎ、リリアは弓弦を張り替えていた。


カウンター代わりの岩の上で、トシが扇子を広げて言った。

「最初の祠は“飢え”。次は“渇き”。なあ、兄貴」

「なんだ」

「この祠の配置、何かを象徴してないか。飢え、渇き、それから——」

「ああ。おそらくは、人間が味わう“苦しみ”の順番だろう。飢え、渇き、痛み、喪失、そして——虚無。すべての苦しみの果てに、原初の飢餓が待つ」

「……きついな」

「だからこそ、我々が共に行くのだ」


シロガネが焚き火のそばで尾を揺らし、クロがくぅんと鳴いて俺の膝に顎をのせた。ガルムは少し離れた場所で伏せ、飢狼との別れを噛みしめているようだった。




夜が更けて、星が岩山の上に無数に輝き始める。


「なあ、カズマ」

リリアが焚き火の向こうから声をかけた。

「あんた、帰ったらまた焼きおにぎりを食いたいって言ってたな」

「ああ」

「私もだ。だから——絶対に帰ろう」

「ああ。約束だ」


俺は星空を見上げ、次の祠への道を考えていた。渇きの祠——水を拒絶する獣。それでも、満たすことはできるはずだ。料理で、味で、誰かのために作ることで。


それが俺の——屋台シェフのやり方だからだ。


(第47話 終)




▼ 次回予告(第48話用の引き)


二つ目の祠“渇きの祠”が近づく。周囲の空気は乾き、一行の水筒も次第に底をつき始めた。

「水を拒絶する獣——なら、何を与えればいい」

そこでカズマが取り出したのは、意外な食材だった。

(次話:「渇きの祠」)

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