表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/120

第51話「虚無の祠」



喪失の祠を発ってから、一行はさらに北へと歩みを進めていた。


道はもはや道と呼べるものではなく、灰色の砂利が広がる荒れ地だった。空は曇り、風は止み、鳥の声ひとつ聞こえない。あたりを包む静けさは、もはや静寂ですらなく、ただ「何もない」という実感だけが肌にまとわりつく。


「ここが虚無の領域か」

リリアが呟く。声はすぐに霧に吸い込まれ、反響すら返ってこない。

「ああ。虚無の祠に近づくほど、世界から何かが失われていく」

エルムが杖をつきながら答えた。彼の声もまた、かすれて頼りない。

「かつて私は、この祠で立ち往生した。何もない場所では、何も作れなかった」


俺は黙って歩き続けた。背負った包みは驚くほど軽い。米はもう一粒も残っていない。味噌も醤油も使い切った。梅干しも柚子も干し杏も、すべて旅の途中で誰かのために使ってきた。残っているのは無味砂漠の岩塩がほんの少しと、エルムが道中で見つけた食用かどうかもわからぬ野草の束だけ。Deliveryは完全に沈黙したままだった。


「師匠、大丈夫ですか」

アリシアが心配そうに声をかける。

「大丈夫だ。材料がなくても——料理はできる」

「でも、何もなければ——」

「何もない場所にも、味はある。無味砂漠で塩を見つけたみたいにな」

「……はい」


シノが自分の包丁を握りしめながら言った。

「俺、何か集めてきます。このあたりに生えてる草とか」

「ああ。食べられそうなものを探してくれ。ただし、毒には気をつけろ」

「はい!」


シノはエレナから教わった毒見の知識を活かし、荒れ地の隅に生える野草を慎重に摘み始めた。アリシアも手伝い、ゴルドアとマクシミリアンは周囲の警戒にあたる。ガルムとシロガネ、クロは気配を消して祠の在り処を探っていた。


「——見つけた」

シロガネが低く唸る。前方の霧が少しだけ薄れ、その向こうに祠が見えてきた。それは他の祠とは違って、岩に穿たれた横穴ですらなく、ただぽっかりと口を開けた「無」そのものだった。周囲の岩はなく、地面すら途切れ、祠の入口は暗黒の虚空が広がっている。


「ここが虚無の祠」

エルムの声が震える。

「中には何も棲んでいない。ただ虚無だけが広がっている。入れば——自分の存在すら、無に帰そうとする」

「でも、入らなければ封印は修復できない」

「ああ」


俺は祠の入口に立った。虚空からは何の音も聞こえず、何の匂いもしない。ただ、すべてを無に還そうとする圧力だけが、肌を刺すように伝わってくる。


「中には——獣はいないのか」

「いない。虚無そのものが、獣なのだ」

「わかった。俺一人で入る」

「カズマ!」

リリアが叫ぶ。

「何言ってる!一人でなんて——」

「大丈夫だ。虚無の祠には、料理で対抗する。料理は——一人で作るものだ」

「でも——」

「リリア。お前はここで待っていてくれ。俺が戻らなかったら——」

「戻らなかったら?」

「その時は、トシにでも食わせてやれ」


トシが扇子を閉じて言った。

「カズマ。虚無は——神ですら怖れる場所だ。お前一人で行かせるわけには——」

「トシ。お前は食神だ。食の力を信じろ」

「……わかった。信じるよ。お前の料理を」


グーラが静かにうなずく。

「虚無は——かつて我が堕ちた場所。そこから戻るには、誰かのための味が必要だ。お前には、それがある」


シノとアリシアが、摘んだ野草を小さな束にして差し出した。

「師匠、これ——」

「ああ。ありがたく使う」

「必ず戻ってきてください」

「ああ」


俺は野草の束と岩塩だけを手に、虚空の祠へと足を踏み入れた。




祠の中は、光すら存在しなかった。


いや、光だけではない。音も、匂いも、温度すらもなかった。自分の足音が聞こえず、自分の呼吸すら感じられない。存在しているという感覚だけが、かろうじて「自分」を保たせている。


——ここが虚無。何もない場所。


俺は立ち止まり、目を閉じた。虚無に呑まれそうになる意識を、必死でつなぎ止める。


「何もない。でも——」


俺はかつて、無味砂漠で味を見つけた。あの時も、空気は無味で、何も感じられなかった。しかし、岩の割れ目に白い塩の結晶を見つけ、それを炙り、香りを引き出した。何もない場所にも、必ず「味の種」はある。


「まだ、俺の舌は生きている」

俺は自分の指先を口に含んだ。かすかに、塩の味がした。旅の疲れと、今日までに作った数々の料理の味が、指に染み込んでいる。

「この味が——俺の存在の証だ」


俺は祠の床に跪き、小さな竈を組み立てた。炭火の代わりに、自分の中の「味の記憶」を頼りに火を起こす。それは本物の火ではない。しかし——虚無の中で、かすかな温もりが生まれた。


「水の代わりに——自分の唾液を使う。米の代わりに——野草を刻む。味噌の代わりに——自分の指に染みた塩の味を使う」


俺は野草を刻み、唾液で湿らせ、岩塩をひとつまみ加えた。材料はそれだけ。火も水も、調味料すらほとんどない。でも——それで十分だ。


なぜなら、この料理は「誰かのために」作るものだからだ。


「これは——“存在の塩粥”だ」

俺は虚空に向かって、手の中の料理を差し出した。椀もない。ただ両の手のひらに、刻んだ野草と塩が乗っているだけだ。

「誰もいなくても、何もなくても——俺はここにいる。俺が作ったこの料理が、その証拠だ」


虚空が、かすかに震えた。


何もなかった空間に、初めて「匂い」が生まれた。野草の青臭さと、岩塩のほのかな香ばしさ。それは虚無にとって、初めての「存在」だった。


「食え。お前は虚無かもしれないが——虚無だからこそ、味を知る資格がある」


虚空が、ゆっくりと手の中の料理を「呑み込んだ」。それは食べるという行為とは違う。しかし——確かに、虚無は料理を受け入れた。


次の瞬間、祠の中に光が生まれた。かすかな、だが確かな光。


虚無の奥から、声が聞こえた——声ではない、直接、心に響く感覚だった。

「——存在を、感じた」

「ああ」

「私は、何もない。しかし——お前の料理が、私に“何か”を与えた」

「それは味だ。誰かのために作る味だ」

「味——それが、存在の証」

「そうだ。お前はもう、虚無じゃない。味を知った虚無は——存在の一部だ」


祠全体が、静かな光に包まれ始めた。虚無の祠が、徐々に実体を取り戻していく。岩壁が現れ、床が固まり、祠の奥には——小さな祭壇が姿を現した。


「——封印が、修復された」

俺は呟き、崩れるようにその場に座り込んだ。手の中の料理はもうない。しかし、祠の空気はもはや虚無ではなかった。かすかに野草の香りが残り、岩塩の温かさが壁に染みている。




どれだけ時間が経ったのか、わからない。


気がつくと、俺は祠の入口に立ち、リリアたちの前に出ていた。


「カズマ!」

リリアが駆け寄り、肩を支える。

「大丈夫か!?」

「ああ。腹は減ったが——生きてる」

「祠は——」

「封印した。これで五つ全部だ」


エルムが祠の壁に手を触れ、深く息を吐いた。

「——間違いない。虚無の祠の封印が、完全に修復された。これで——飢餓の神殿への道が開かれた」

「やった——!」

シノが飛び上がり、アリシアが涙をぬぐい、ゴルドアとマクシミリアンが無言で拳を握り合う。ギリアムが大剣を地面に突き立て、深く息をついた。


トシが扇子を広げ、破顔一笑する。

「やったな、カズマ!やっぱりお前ならやってくれると思ったよ!」

「ああ。みんなの材料と、みんなの想いのおかげだ」


グーラが静かにうなずく。

「虚無すらも、味で満たしたか——もはやお前の料理は、神の域を超えた」

「超えてない。ただ——誰かのために作っただけだ」


喪犬が祠の奥から現れ、静かに尾を振っている。虚無の祠に棲んでいた獣はいなかったが——喪犬がここに留まり、新たな祠の守り手になるらしい。


「さあ、これで五つの祠は終わったぞ」

俺はリリアに支えられながら立ち上がり、全員を見渡した。

「次は——いよいよ飢餓の神殿だ。原初の飢餓が待つ、最後の封印地」

「ああ」

「そこで俺は——“味の核”を作る」

「どんな料理なんだ」

リリアが尋ねる。

「まだわからん。でも——これまでに作ったすべての料理の味を、一つの料理に込める。飢え、渇き、痛み、喪失、虚無——すべての苦しみを鎮める料理を作る」

「作れるのか」

「作る。材料は——ここにいる全員の“味”だ」


俺は空を見上げた。北の空には、異様な暗雲が立ちこめている。その中心に——飢餓の神殿がある。


「よし、出発だ。神殿までは、あと少し」

「了解!」

「ああ!」


一行は最後の旅路へと歩みを進める。背後では、五つの祠が静かに光を放ち、封印の力を神殿へと送り始めていた。


(第51話 終)




▼ 次回予告(第52話用の引き)


五つの祠を鎮め、一行はついに飢餓の神殿へと到着する。そこはこの世のものとは思えぬ異様な空間だった。

神殿の最奥に眠る原初の飢餓——その封印の扉を開くため、カズマは「味の核」を作り始める。

(次話:「飢餓の神殿」)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ