第45話「封印監視官」
戦神の来訪から数日、王都はすっかり平穏を取り戻していた。
屋台には相変わらず長蛇の列ができ、新たな常連としてゴルドアとマクシミリアンが週に二度は顔を出すようになっている。戦神の先触れと将軍が並んで焼きおにぎりをかじる姿は、最初こそ市場の度肝を抜いたが、今ではすっかり日常の風景だ。
「ゴルドア殿、そのパンはいつもより焦げていないか」
「将軍、これはわざとだ。少し生焼けのほうが汁を吸う」
「なるほど」
二人がそんな会話を交わしている隣で、アリシアとシノは新作の「寄せ鍋風味噌汁」の試作に余念がない。戦神に捧げた寄せ鍋の味を、普段のメニューに落とし込めないか——二人が中心になって試行錯誤しているのだ。
「兄弟子、この出汁にもう少し柑橘を加えてはどうでしょう」
「あ、そうですね。酸味が強くなると、味噌と喧嘩するかな……」
「少しだけなら大丈夫だと思います」
「じゃあ、それで」
俺はその様子を眺めながら、炭火の番をしていた。リリアが茶をすすりながら言う。
「あんた、最近弟子に任せすぎじゃないか」
「いいんだ。教えたことは自分で試せ」
「で、あんたは何をしてる」
「次のことを考えている」
原初の飢餓。戦神が警告した、万物を喰らい尽くす虚無の飢え。その封印が解け始めている——それも、俺のDeliveryスキルがその力の一部だという。ガルムが欠片で、ジルベールの毒もグーラの味覚の狂気も、すべて原初の飢餓の影響だったというのか。
「なあ、トシ。お前は原初の飢餓について、どこまで知ってる」
「うーん、噂程度だよ。神々の会議でも、封印の話は禁句に近かった。それだけ危険なものなんだ。ただ——」
「ただ」
「封印を監視する役目の神がいるって聞いたことがある。“封印監視官”って呼ばれる、神ですらない半神半人の存在だって」
「その封印監視官は、今はどこに」
「さあ。もうずっと音沙汰がないって——」
その時、市場の入口に、見慣れぬ人影が立った。
灰色の外套をまとい、フードを目深にかぶっている。足取りは静かで、杖をついている。年の頃は判然としない——若くも老いても見える、不思議な佇まいの男だった。外套の下から覗く手には、古びた羊皮紙の巻物が握られている。
男は迷いなく屋台に近づき、カウンターの前に立った。
「——カズマ殿」
声はかすれていたが、妙に耳に残る響きがあった。
「私は“封印監視官”だ。噂を聞いて参った」
広場の空気が、かすかに震えた。トシが扇子を閉じ、グーラが顔を強張らせる。
「封印監視官」
「ああ。原初の飢餓の封印を、千年にわたって監視してきた者だ。今、その封印が——かつてないほど弱まっている」
「それで、なぜ俺のところに」
「決まっている。お前の料理が——飢餓を鎮める力を持つからだ」
男はフードを外した。現れたのは、痩せこけた顔だった。頬は落ち、目はくぼみ、唇は乾ききっている。髪は灰色を通り越して白く、肌は羊皮紙のようにかさついていた。長い年月、ほとんど人と会わずに封印を見守り続けてきた者の顔だった。
「名はエルム。私はかつて、神々の会議から派遣された半神だった。しかし——千年の孤独のうちに、神の力は失われた。残ったのは、この知識だけだ」
彼は手にした羊皮紙を広げた。それは地図だった。人跡未踏の山脈の奥に、「飢餓の神殿」と古い文字で記されている。
「ここが原初の飢餓の封印地だ。ここ数十年、封印が急速に弱まっている。私はその原因を探り、突き止めた」
「原因」
「人間の——“飽食”だ。この世界が平和になり、食が豊かになるほど、飢餓は力を増す。飢えと満腹は、表裏一体。どちらかが極まれば、もう一方もまた強くなる」
「つまり」
「お前の料理は、人を満たす。それは素晴らしいことだ。しかし——満たされる者が増えれば増えるほど、封印の奥の飢餓もまた、その対極として目覚めていく」
俺は黙って炭火を見つめた。俺の料理が、飢餓を鎮める一方で、飢餓を呼び覚ましている——そういうことか。
「どうすれば封印は修復できる」
「修復はできぬ。原初の飢餓は、この世界の“空腹”そのもの。完全に消し去ることはできん。ただ——鎮め、再び深く眠らせることはできる」
「方法は」
「封印の中心に、“味の核”を捧げることだ。それは単なる料理ではない。この世界で最も多くの者の“味”を集めた一皿——いわば、この世界の味の結晶が必要だ」
「味の結晶」
「ああ。そして——それを作れるのは、世界中の味を知り、誰よりも多くの者を満たしてきた料理人だけだ。つまり——カズマ。お前だ」
リリアが立ち上がった。
「あんた、それって——」
「危険な旅になる」
エルムは遮った。
「飢餓の神殿へ至る道は、飢えに取り憑かれた者たちが彷徨い、飢餓の欠片が実体化した獣が巣食っている。私はその道を一人で歩けず、ここまで来るのに十年かかった」
「十年」
「ああ。しかし——お前となら、たどり着けるかもしれない」
俺はしばらく考えてから、立ち上がった。
「まず、飯を食え」
「……なに」
「腹が減ってるだろう。封印監視官だか何だか知らんが、そんな痩せた体で話を続けても、まともな判断はできん」
エルムのくぼんだ目が、かすかに揺れた。
「私は千年間、まともな食事など——」
「なら、千年ぶりに食え。アリシア、シノ——試作の味噌汁を持ってこい」
「はい!」
「グレゴール、焼きおにぎりを一つ。ゴルドア、パンを少し。マクシミリアン、粥の残りはあるか」
「ある」
「よし。全部まとめて、定食にしろ」
やがて、エルムの前には豪華な定食が並べられた。寄せ鍋風味噌汁、焼きおにぎり、戦場のパン、粟粥、卵かけご飯、解毒サラダ——屋台のメニューをほぼ網羅した一食だ。
「食え」
エルムは震える手で味噌汁をすする。次の瞬間——彼の目が、大きく見開かれた。
「……あたたかい」
「そうだろ」
「千年ぶりだ。千年ぶりに——誰かのために作られた料理を、口にした」
「まだある。全部食え」
エルムは無言で箸を動かし、焼きおにぎりをかじり、粥をすすり、パンをちぎり、卵かけご飯をかきこんだ。その顔に、少しずつ生気が戻っていく。
「……うまい。こんなものが、この世にあったのか」
「それが料理だ」
完食後、エルムは深く息を吐き、涙をぬぐった。
「カズマ——私は、ずっと間違えていた。封印を守ることに必死で、味を遠ざけてきた。しかし——お前の料理は、飢餓を呼び覚ますだけのものではない。私のような者さえ、生き返らせる。ならば——お前となら、飢餓を鎮められるかもしれない」
「行くのか、飢餓の神殿に」
「ああ。案内しよう。道は私が知っている」
「わかった。ただし、すぐには行けない」
「なぜ」
「準備がいる。ここに集まった全員の味を、もう一度一つの料理にまとめる。それが“味の核”になる」
エルムは深くうなずいた。
「わかった。私も手伝おう。千年間、飢餓の近くで見てきた知識が、何かの役に立つはずだ」
「ああ。まずは——あんたもこの屋台の一員だ。飯を食い、休め。旅はそれからだ」
夕暮れ、屋台を閉めた後、俺たちは次の旅の相談を始めた。
「飢餓の神殿か」
トシが扇子を握りしめて言った。
「神々ですら近づかない場所だ。でも——」
「でも」
「お前となら、行ける気がするよ。食神として——飢餓の正体を、見届けたい」
「ああ」
グーラが静かにうなずいた。
「我も同行しよう。原初の飢餓の欠片に取り憑かれた過去を持つ者として——決着をつけたい」
「頼む」
シロガネが尾を揺らし、クロがくぅんと鳴き、ガルムが低く唸った。
「我々も行く。飢餓は——我々の天敵だからな」
リリアが弓を背負い直した。
「私も行く。当然だろ」
「ああ」
ギリアムと将軍がうなずき、グレゴールとエレナもそれに続く。ゴルドアとマクシミリアンとヴァルケンもまた、無言で武器を確かめている。
シノとアリシアが一歩前に出た。
「師匠——俺も」
「私も」
「お前たちは——」
「私も行きます」
アリシアが遮った。
「戦えなくても、料理で支えられます。それに——私は、この世界の味を知り始めたばかりです。その味を、飢餓に奪わせたくない」
「俺もです。俺は——まだ誰かのために料理を作り続けたい」
シノの目は真剣だった。
俺は二人を見つめてから、うなずいた。
「わかった。ただし、無理はするな。危険だと思ったら、すぐに引き返せ」
「はい!」
エルムが地図を広げ、テーブルに置く。
「飢餓の神殿は、北の果て、嘆きの山脈の最深部にある。道中、五つの“飢餓の祠”があり、それぞれに封印の欠片が祀られている。まずはその祠を巡り、欠片を浄化しなければ、神殿には入れん」
「その欠片の浄化に、料理が必要なのか」
「ああ。料理で欠片を鎮め、味を捧げる。それが封印監視官としての私の役目だった。しかし——私の料理では、力が足りなかった」
「なら、俺が作る」
エルムは少しだけ笑った。千年ぶりの笑顔だった。
「よかろう。では、明日より旅支度を始める。旅程は片道だけでも優に一ヶ月はかかるだろう。準備は抜かりなくな」
夜、俺は一人、屋台の厨房に立っていた。
原初の飢餓。俺のDeliveryスキルの正体。そして——世界中の味を集めて作る「味の核」。課題は山積みだが、やるべきことはいつもと同じだ。
誰かのために、料理を作る。それだけだ。
「なあ、カズマ」
トシがそっと現れた。新しい扇子には、山脈と神殿の絵が描かれている。
「いよいよ、か」
「ああ」
「怖いか」
「怖い。だからこそ——飯を作る」
「それだけか」
「それだけだ」
トシは扇子を広げて笑った。
「いいね。じゃあ——行くか。原初の飢餓に、味を教えに」
(第45話 終)
▼ 次回予告(第46話用の引き)
北の果てへ出発する前夜、屋台には旅立つ者と留守を守る者が集まった。
「カズマさん、俺も残ってこの屋台を守ります」
ヴァルケンと戦士たちが名乗りを上げ、ゴルドアとマクシミリアンはカズマと共に行くことを決める。
「留守の間の営業は任せろ」
常連客たちが笑顔で宣言する中、旅立ちの朝が近づく。
(次話:「旅立ちの朝」)




