第44話「戦神の食卓」
王宮の大広間は、かつてない静けさに包まれていた。
高い天井には王国の旗が掲げられ、壁には歴代の王たちの肖像が並ぶ。磨き抜かれた石の床には、戦神の来訪に備えて赤い絨毯が敷かれていた。普段は貴族や使節で賑わうこの広間も、今日はただ一人の来訪者のために用意されている。
玉座の前には、長い食卓が設えられていた。その中央に、俺たちが作り上げた「屋台の寄せ鍋」が、大きな土鍋の中で静かに湯気を立てている。周りには、それぞれが作った料理の数々——マクシミリアンの粟粥、アリシアの解毒スープ、シノの卵かけご飯、グレゴールの祝祭スープ、エレナの解毒サラダ、リリアの焼きおにぎり、ゴルドアの戦場のパン——が所狭しと並べられていた。
広間の隅には、俺たちの仲間が勢揃いしている。リリア、グレゴール、エレナ、ギリアム、将軍、シノ、アリシア、ヴァルケンと戦士たち、ゴルドア、マクシミリアン——そして気配を消したトシ、グーラ、シロガネ、クロ、ガルム。全員が固唾を呑んで、広間の大扉を見つめていた。
「——来る」
トシが小声で言った。
大扉が、音もなく開かれた。
現れたのは——漆黒の鎧をまとった巨体の神だった。戦神。その姿はマクシミリアンやゴルドアよりもさらに大きく、兜の奥には赤い光が二つ、静かに燃えている。背中の大剣は鞘に収められ、その歩みは静かで、しかし一歩ごとに広間の空気が震えた。
戦神は玉座に座し、兜の奥から食卓を見下ろす。その後ろには、数名の近衛兵たちが黒い鎧を着けて控えていた。
「——これが、そなたたちの“味”か」
声は低く、雷鳴のように広間に響いた。
「私は戦神。味を不要と断じ、千年の間、糧食のみで生きてきた。その私に、何を捧げる」
俺は一歩前に出た。
「“屋台の寄せ鍋”だ」
「寄せ鍋」
「あんたのために、ここに集まった全員が作った料理を、一つの鍋にまとめた。あんたがかつて糧食として食った戦場のパン、将軍が母を思い出して作った粟粥、教会が神に捧げた祝祭スープ、毒を解毒するスープとサラダ、卵かけご飯、焼きおにぎり——そのすべてが、この鍋に溶けている」
「……すべて」
「ああ。これは、ただの料理じゃない。この世界で出会ったすべての者の味だ。食え。話はそれからだ」
戦神はしばらく沈黙し、それから兜を外した。
現れたのは、意外にも整った顔立ちだった。黒髪に白いものが混じり、目は赤く輝いている。顔にはいくつもの古傷があり、そのすべてが千年の戦いの痕だった。表情は硬く、感情が読み取れない——しかし、その目が、鍋をじっと見つめている。
戦神は自ら箸を取らず、しばし湯気の立つ鍋を見下ろしていた。広間にただ鍋の煮える音だけが響く。そして——ゆっくりと、箸を伸ばした。
まず、ゴルドアの戦場パンが汁を吸って柔らかくなったものを一口。
——戦神の手が、止まった。
「……これは」
「戦場のパンだ。あんたの先触れ、ゴルドアが焼いた」
「戦場のパンに、こんな味があったか」
「同じ麦でも、誰かのために焼けば甘くなる。ゴルドアは、あんたのために焼いた」
戦神は答えず、次の具に箸を伸ばす。マクシミリアンの粟粥の団子を一口。
「……この粥は」
「将軍マクシミリアンが作った。かつて母に作ってもらった粥を、自分の手で再現した」
「マクシミリアンが」
「はい」
マクシミリアンが深く頭を下げる。
「主君。私は貴方に忠誠を誓いながら、一度も料理を作ったことがありませんでした。これが——私の粥です」
戦神はしばらく箸を置き、それからアリシアの解毒スープが混ざった汁を一口すする。グレゴールの祝祭スープの澄ましが加わった汁を一口。エレナのサラダの柑橘が香る野菜を一口。シノの卵黄が溶け込んだ濃厚な出汁を一口。リリアの焼きおにぎりの焦げた欠片が浮かぶ汁を一口。
そのたびに、戦神の手が、かすかに震えた。
「……これは、何だ」
「屋台の味だ」
「違う。そうではない——」
戦神の声が、初めて揺らいだ。
「私は、この味を知っている。これは——遠い昔、私がまだ人間だった頃の——」
戦神は箸を置き、両手で顔を覆った。
「——私はかつて、ただの兵士だった。戦に明け暮れ、家族も故郷も失い、死にかけた戦場で、一人の女が私に粥を差し出した。『食べて、生き延びて』と。あの粥は——温かかった。命の味がした。私はその女と共に生きようと思った。しかし——戦が彼女を奪った。私は戦を憎み、戦を終わらせるために戦い続け、いつしか神に選ばれていた。そして——味を、忘れた」
「思い出したな」
「……ああ。千年ぶりだ。誰かのために作られた料理を、私は千年ぶりに食べた。そして——あなたがたの料理には、あの女と同じ“誰かのために作る味”がある。戦力でも効率でもない、ただ誰かの腹を満たし、心を温めるための味が」
戦神は顔を上げた。その目は潤み、古傷の頬を涙が伝っていた。
「カズマ。私は、あなたの料理を——価値ありと判定する」
「ありがたい」
「ただし——」
戦神の声が、再び硬さを取り戻した。
「価値ありと認めたからこそ、警告せねばならぬ。この世界には——私ですら敵わぬ“飢え”が存在する」
「飢え」
「“原初の飢餓”。かつて神々が封じた、万物を喰らい尽くす虚無の飢えだ。その封印が——近年、少しずつ解け始めている」
広間が凍りついた。トシが息を呑み、グーラが顔を強張らせ、ゴルドアとマクシミリアンが表情をなくす。他の者たちも、戦神の言葉の重みに沈黙した。
「原初の飢餓」
「ああ。飢餓神獣ガルムは、その欠片に過ぎぬ。美食教団のグーラが追い求めた究極の味も、毒師ジルベールが利用した毒の味も、すべて——原初の飢餓がこの世界に漏れ出した影響だ」
「……ガルムが欠片」
「そうだ。そして——カズマ。お前の『異世界デリバリー』もまた、原初の飢餓の力の一部だ。お前は——知らぬうちに、飢餓の力を料理に変えているのだ」
「俺の力が」
「ああ。だからこそ、お前の料理はどんな者でも満たす。神すらも満たす。それは祝福であり——同時に、呪いでもある。お前が料理を作れば作るほど、原初の飢餓もまた、お前を感知する」
俺は自分の手のひらを見つめた。このDeliveryスキル——便利だと思っていた力が、まさかそんなものの一部だったとは。
「だが」
戦神は立ち上がった。
「私は今日、あなたの料理を食い、思い出した。味とは——誰かのために作ることで生まれるものだと。その力を、私は守りたい」
「守る」
「ああ。戦神の軍を、原初の飢餓からこの世界を守るために再編する。そして——カズマ。お前にも協力を願いたい」
「協力」
「ああ。料理で、飢餓と戦え。お前の料理は、飢餓を満たし、眠らせることができる——かつてガルムを鎮めたようにな。私は時間を稼ぐ。お前は——料理を磨け。いずれ来るべき日に備えて」
俺はしばらく考えてから、うなずいた。
「わかった。もともと、そのつもりだ」
「よかろう。では——」
戦神は兜を被り直し、背筋を伸ばした。
「今日はここまでだ。カズマ——いや、屋台シェフよ。また会おう」
「ああ。次は、もっとうまい鍋を作っておく」
「楽しみにしている」
戦神はかすかに口元を歪めて——それが微笑みだと気づくまで、少し時間がかかった——背を向け、大扉の向こうに消えていった。近衛兵たちもそれに続き、やがて広間には静けさが戻る。
「……勝った、のか」
リリアが呆然と呟く。
「勝ったんじゃない。飯を食わせただけだ」
「それで、戦神が——」
「戦神も、腹を空かせてた。それだけだ」
シノがへなへなと床に座り込む。
「終わった……終わったんですね……」
「まだだ」
「え」
「原初の飢餓ってのが残ってる。だが——今は、この勝利を噛みしめろ。よくやった」
「……はい!」
アリシアが涙をぬぐいながら笑い、マクシミリアンとゴルドアが固い握手を交わす。グレゴールが静かに鍋を片付け、エレナが無言で微笑み、ギリアムと将軍が安堵のため息をついた。
トシが扇子を広げて言った。
「原初の飢餓、か。戦神があそこまで言うとはな」
「知ってたのか」
「噂だけな。神々の間でも、封印が解けかけてるって話はあった。でも——まさか、お前のDeliveryがその一部だったとは」
「心当たりはある。この力は——便利すぎた。なんでも取り寄せられる力が、ただのスキルのはずがない」
「それでも——お前は、その力を料理に使ってきた」
「ああ。そしてこれからも、そうする」
グーラが静かに言った。
「原初の飢餓——かつて我が追い求めた究極の味は、あれの欠片だったのかもしれぬ。しかし、今は違う。我はトシと共に、お前の料理を守るために戦おう」
「ああ。俺も——食神として、戦おう」
トシが扇子を握り直す。
「戦いは嫌いだけど——守るためなら、仕方ない」
シロガネが尾を揺らし、クロがくぅんと鳴き、ガルムが寝そべったまま耳を立てている。
夕暮れ、王宮を辞去した俺たちは、屋台に戻ってきた。
「よし、開店するぞ」
「は!?今から!?」
リリアが叫ぶ。
「戦神が帰ったばかりだぞ。みんなくたくただ」
「それでも、腹は減る。それに——鍋の残りがある。今日のまかないは“屋台の寄せ鍋”の大盛りだ」
「……あんたらしいな」
グレゴールが寸胴に火を入れ、エレナが野菜を刻み、シノとアリシアが茶碗を並べる。ゴルドアとマクシミリアンが客の整理を手伝い、ヴァルケンと戦士たちが市場の見回りを始めた。
常連客たちが詰めかけ、鍋の湯気と笑い声が屋台を包む。
戦神が去り、原初の飢餓の脅威が迫っている。それでも——屋台は今日も開いている。
カウンターの隅で、トシが新しい扇子を広げて笑った。その絵は——屋台を囲む無数の人影と、その真ん中に置かれた大きな寄せ鍋だった。
(第44話 終)
▼ 次回予告(第45話用の引き)
戦神の訪問から数日。原初の飢餓について調べ始めたカズマの前に、一人の男が現れた。
「私は——“封印監視官”だ。原初の飢餓の封印が、かつてないほど弱まっている」
彼がもたらしたのは、人跡未踏の地に眠る“飢餓の神殿”の地図だった。
(次話:「封印監視官」)




