第43話「告げ人の真意」
ゴルドアが武装を解いて屋台に現れたのは、戦神親征まであと二日に迫った夕暮れだった。
あの巨体を包んでいた漆黒の鎧は脱ぎ去られ、今は粗末な旅装束に身を包んでいる。背にあった二振りの大斧もなく、手にはただ——小さな布袋が握られていた。その姿は、先日広場で見た威圧的な先触れとは別人のようだった。
「カズマ。戦神に捧げる一皿——そのために来た」
「あんたが、料理を」
「そうだ。俺は戦神の先触れとして、長年、主君の命令を伝えるだけの存在だった。しかし——」
ゴルドアは布袋を開いた。中から出てきたのは、黒く乾燥した穀物の粒だった。見たことのない穀物だが、かすかに甘い香りがする。
「これは“戦場麦”。戦神の兵士たちが糧食として携行する、神域の麦だ。味はなく、栄養だけがある。我々はこれを齧り、戦い続けてきた」
「その麦で、何を作る」
「パンだ。戦場で兵士が焼く、固くて味のしないパン。だが——」
「だが」
「お前の粥を食って、思い知った。同じ麦でも、作り方で味が変わると。俺は——主君に、あの方を戦神に選んだ者として、もう一度だけ“戦場のパン”を食べてほしい。そして——味を知ってほしい」
俺はしばらくゴルドアの目を見つめた。無骨な巨人の目は、驚くほど真っ直ぐだった。
「いいだろう。厨房を使え」
「……感謝する」
ゴルドアは屋台の厨房に立ち、戦場麦を粗く挽き始めた。その手つきは不器用で、粉があちこちに飛び散る。しかし彼は真剣な顔で、水と塩を加え、生地を捏ね上げていく。捏ねる手は力強く、しかしどこか優しさがあった。
「——あんた、パンが作れるのか」
リリアが興味深そうに覗き込む。
「兵士なら誰でも作れる。戦場では自分で糧食を用意する。だが——こんなに丁寧に作ったのは初めてだ」
「誰かのために作るからだろ」
「……そうだ」
ゴルドアは捏ねた生地を鉄板にのせ、炭火の余熱でじっくりと焼き始めた。やがて、香ばしい麦の香りが屋台に広がる。それは素朴で、飾り気のない、しかし確かな命の匂いだった。
マクシミリアンが静かに近づき、ゴルドアの手元を見守る。
「——貴様、パンを焼くのか」
「将軍。貴方も料理をなさると聞き、俺も——」
「そうか」
マクシミリアンは少しだけ口元を緩めた。二人の間に流れるのは、長年の戦友としての無言の理解だった。
「あのパン、戦場で食ったことがある」
ヴァルケンが呟く。
「固くて、味がしなくて、でも——腹が減って死にそうな時、これだけが命を繋いだ」
「ああ。俺もだ」
若い戦士がうなずく。
「でも——今、ここで焼かれてるパンは、あの時よりずっといい匂いがする」
アリシアがおずおずと手を挙げた。
「ゴルドア殿。そのパン——少しだけ、味見してもよろしいですか」
「……かまわん」
アリシアは焼きたてのパンをちぎり、口に運ぶ。そして——目を丸くした。
「……あまい」
「戦場麦に甘みはないはずだ」
「違います。麦自体は甘くありません。でも——噛んでいると、ほんのりと甘さが——」
「それは、誰かのために焼いたからだ」
俺は言った。
「誰かのために作ったパンは、冷めても甘い。戦場で食ったパンに、それがなかっただけだ」
ゴルドアは自分のパンを一口かじり、しばらく黙って噛みしめていた。それから——かすかに、笑った。
「……なるほど。これが、味というものか」
「そうだ」
「主君に——戦神に、この味を伝えたい。あの方もかつては、戦場でこのパンを食った。味がしなくとも、腹を満たすために。あの方にも——本当のパンの味を知ってほしい」
「それで、戦神は変わると思うか」
「わからん。しかし——」
ゴルドアはパンを胸に抱き、深く息を吐いた。
「私は、あの方に仕えて千年になる。あの方は一度も、誰かのために作られた料理を食ったことがない。すべての食事が、戦力としての糧食だった。だから——味を知らない。味を知らぬ者に、味の価値を伝えることは難しい。それでも——」
「それでも」
「このパンが、何かを変えるかもしれない。そう信じたい」
トシがカウンターの隅で、扇子を揺らしながら言った。
「戦神が誰かのために作られた料理を食ったことがない——か。そりゃあ、味を無駄と言うわけだ」
「トシ」
「なあカズマ。戦神の飢えは——味を知らないことそのものなんじゃないか」
「そうかもしれない」
グーラが静かにうなずいた。
「我もかつて、味を極めすぎて堕ちた。しかし戦神は——味を遠ざけすぎたのだろう。過ぎたるは及ばざるが如し。ならば——お前の料理で、その均衡を破るしかない」
夜、俺たちは完成したすべての料理を、一つのテーブルに並べた。明日の本番に向けた、最後の試食会だった。
マクシミリアンの「粟粥」——まだ不格好だが、米の甘みが引き出されている。
アリシアの「解毒スープ」——柑橘の清涼な酸味と薬草の深みが調和している。
シノの「卵かけご飯」——ネギの刻みが格段に上達し、卵黄が美しく輝く。
グレゴールの「祝祭スープ」——聖餐庁最古のレシピが、現代に蘇った深い味わい。
エレナの「解毒サラダ」——野菜の鮮度を活かした軽やかな一皿。
リリアの「焼きおにぎり」——醤油の焦げた香ばしさが際立つ、いつもの味。
ゴルドアの「戦場のパン」——素朴で、噛むほどに甘い。
そして——俺の料理。それらすべてをまとめる一皿。
「よし、全員、俺の料理を食え」
俺は土鍋の蓋を開けた。立ち上る湯気と共に、様々な香りが混ざり合い、広がっていく。
それは——「寄せ鍋」だった。
この世界の川魚、王都の豆腐、無味砂漠の岩塩、カジカの村の山菜——そして、出汁はグレゴールの祝祭スープの澄ましをベースに、エレナの解毒サラダの柑橘を加え、アリシアの解毒スープの薬草で香りをつけたものだ。鍋の中央には、マクシミリアンの粟粥を団子状に丸めたものを浮かべ、ゴルドアの戦場パンをちぎって入れてある。リリアの焼きおにぎりの焦げた部分を砕いてふりかけにし、シノの卵黄を最後に落として——完成だ。
「“屋台の寄せ鍋”だ」
「寄せ鍋……」
「ああ。みんなの料理を、すべて一つの鍋にまとめた。それぞれの味が喧嘩しないように、出汁で調和させてある。これを食えば——ここに集まったすべての者の味がする」
全員が箸を手に取り、鍋をつつき始める。
「……これは」
マクシミリアンの無表情が崩れた。
「私の粥が、ここまで変わるのか」
「出汁と合わさると、粥がもっと柔らかく感じる」
アリシアが目を輝かせる。
「私のスープの薬草が、鍋全体の香りになってる——」
「卵かけご飯の卵黄が、出汁に溶けて濃厚に——」
シノが感動した声を上げる。
「焼きおにぎりの焦げが、いいアクセントだ」
リリアが満足そうにうなずいた。
「戦場のパンが、汁を吸ってふわふわになってる……」
ゴルドアが呆然と呟く。
「これが——“屋台の味”だ」
俺は言った。
「誰か一人の味じゃない。ここにいる全員の味が、一つの鍋で調和している。戦神に捧げる一皿は——これだ」
「うまい」
最初にはっきりと言ったのは、意外にもゴルドアだった。
「これは、うまい。千年間、主君に仕えてきて——こんなにうまいものを食ったのは初めてだ。これを、あの方に——」
「ああ。明日、この鍋を戦神に捧げる」
グーラが深くうなずき、トシが扇子を広げて笑った。シロガネが尾を揺らし、クロがくぅんと鳴き、ガルムが寝そべったまま耳を立てている。
「よし——明日に備えて、今日はもう休め」
俺は全員を見渡して言った。
「みんな、よくやった。明日は——勝負だ」
夜が更けて、それぞれが仮眠を取る中、俺は一人、炭火を見つめていた。
「なあ、カズマ」
トシがそっと隣に座った。今日は扇子を握ったまま、開いていない。
「明日、戦神が来る。お前の鍋を食って——それでも、味を認めなかったら」
「その時はその時だ」
「でも——」
「トシ。俺は信じてる。料理の力を。そして——ここに集まったみんなの味を」
「……そうか」
トシは少しだけ笑い、扇子を広げた。そこには新しい絵が描かれている——寄せ鍋の湯気と、それを囲む無数の人影が。
遠くの空が、白み始めている。明日——戦神が来る。
(第43話 終)
▼ 次回予告(第44話用の引き)
ついに戦神が王宮に降り立つ。大広間には、カズマたちが作り上げた「屋台の寄せ鍋」が運び込まれた。
戦神は玉座に座し、その漆黒の兜の奥から、鍋を見下ろす。
「これが——そなたたちの“味”か」
(次話:「戦神の食卓」)




