第41話「戦神の予告」
アリシアが弟子入りしてから、二週間が過ぎた。
彼女の上達は目覚ましかった。最初は米を研ぐだけだった手が、今では包丁を握り、ネギを刻み、卵を割り、焼きおにぎりを網の上でひっくり返せるようになっている。まだ形はいびつで、醤油の加減も不安定だが——それでも、彼女が握るおにぎりには、確かな温かみがあった。
「兄弟子、これでいいでしょうか」
「え、えっと……ネギの刻み、もう少し細かくしたほうがいいかも」
「こうですか」
「あ、そうです!そうです!」
シノは王女に「兄弟子」と呼ばれるたびに真っ赤になりながらも、必死に指導していた。彼もまた、教えることで学んでいる。卵かけご飯だけだった彼のレパートリーは、今や焼きおにぎりと味噌汁にまで広がっていた。
「二人とも、悪くない」
俺は二人の作品を一口ずつ味わって言った。
「アリシア、焼きおにぎりの醤油はあと少し控えろ。焦げた醤油の香ばしさを活かしたいなら、塗るのは最後の一瞬だ」
「はい、師匠」
「シノ、味噌汁の出汁が濃くなりすぎた。煮干しの頭を取るのを忘れるな」
「あっ、すみません!」
「二人とも、明日はもっとうまくなる。で、今日のまかないは——シノの味噌汁とアリシアの焼きおにぎりだ。自分たちで食え」
「はい!」
二人は顔を見合わせて笑い、カウンターに並んで座った。王女と孤児の少年が、同じ屋台で同じまかないを食う——この光景だけでも、屋台を続けてきてよかったと思える。
リリアが茶をすすりながら言った。
「しかし、王女がここまで料理に夢中になるとはな」
「いいことだ。料理に身分は関係ない」
「そりゃそうだけど。でも最近、城の侍従たちがやきもきしてるらしいぞ。王女が厨房に入り浸って、公務の合間を縫っては市場に来るから」
「公務をちゃんとやってるなら問題ない」
実際、アリシアは公務を疎かにはしていなかった。朝は城で執務をこなし、午後に抜け出して屋台で修業し、夕方には城に戻る。解毒が進み、顔の爛れもほとんど目立たなくなった彼女は、今や国民から「台所の王女」と親しみを込めて呼ばれ始めている。
「師匠。私、来月には味噌汁を一人で作れるようになりたいです」
「いい目標だ」
「それから——いつか、あなたが戦神と向き合う時、私もその場で料理を作りたい」
「……まだその話か」
「はい。私は戦えません。でも、料理で誰かを支えることはできる」
俺は答えず、炭火を見つめた。戦神。トシからの情報では、戦神は報告を却下し、次の手を考えているという。まだ何も起きていないが——空気が、少しずつ張り詰めているのを感じる。
午後、市場に異変が起きた。
空が、ゆっくりと灰色に染まり始めたのだ。雲ではない。空そのものが、色を失っていくようだった。風が止み、鳥の声が消え、市場の喧騒がしんと静まる。誰もが手を止め、空を見上げた。
「……来る」
トシがカウンターの隅で呟いた。彼の金色の目が、かつてないほど真剣に光っている。
「何が」
「戦神の——本物の軍勢だ。マクシミリアンの比じゃない。今回のは違う。空気が、戦意で飽和してる」
広場の中央に、黒い点が現れた。それは徐々に大きくなり、やがて無数の人影の群れ——黒い鎧に身を包んだ軍勢が、整然と降り立った。数は優に百を超える。中央には漆黒の軍馬に跨った指揮官が数名。そして——そのさらに奥から、一際大きな影が歩み出てきた。
巨体を漆黒の鎧で包み、顔は兜で隠されている。背には身の丈を超える斧が二振り。一歩踏み出すごとに地面が震え、周囲の空気が悲鳴を上げるようだった。
「あれは——戦神の“先触れ”」
ヴァルケンが青ざめた声で言った。彼と戦士たちは、今日も常連として屋台に来ていたのだ。
「戦神が自ら動く時、必ず先触れを遣わす。あの巨漢は——戦神の声を伝える“告げ人”だ。名をゴルドア。彼が来たということは——」
「戦神が、来るのか」
「はい。おそらく——近日中に」
ゴルドアはゆっくりと屋台に向かって歩いてきた。その足音だけで、カウンターの茶碗がかたかたと揺れる。常連客たちは息を呑み、リリアが弓を握り、ギリアムと将軍が左右に展開する。
「——カズマ」
声は、地の底から響く雷のようだった。
「戦神の名において告げる。三日後、戦神はこの街に親征する。目的は——お前の料理の真価を、自らの舌で判定するため」
「判定」
「戦神はこれまでの報告をすべて却下した。査察官の意見も、将軍の意見も、先遣隊の意見も——すべて無価値とされた。戦神ご自身が、直接、お前の料理を食し、判定を下す」
「もし価値なしと判定されたら」
「この街ごと——戦神の炎で清められる」
広場が凍りついた。アリシアが青ざめ、シノが包丁を落としそうになり、リリアが弓を握り直す。
「——ただし」
ゴルドアの声が、わずかにトーンを変えた。
「戦神は寛大なお方だ。判定の前に、お前に一つだけ機会を与える。三日後——王宮の大広間で、戦神に捧げる一皿を作れ。その一皿が、戦神の舌を満足させれば——街は救われる」
「満足させなければ」
「すべてが終わる」
俺は団扇を置き、ゆっくりとゴルドアに向き直った。
「わかった。その勝負、受ける」
「カズマ!」
リリアが叫ぶ。
「あんた、正気か!」
「正気だ。戦神が来るなら——飯を作る。それだけだ」
「しかし——」
「大丈夫だ。俺は屋台シェフだ」
ゴルドアはしばらく俺を見下ろしていたが、やがて口元を歪めた。笑っているのか、嘲っているのか——兜に隠れて判別できない。
「面白い。では、三日後に会おう。カズマ——戦神に、その“味”を示せ」
巨漢は背を向け、軍勢を率いて広場を去っていった。灰色だった空が、徐々に青さを取り戻していく。
夕暮れ、屋台にはいつもの顔ぶれが集まった。
リリア、グレゴール、エレナ、ギリアム、将軍、ヴァルケン、シノ、アリシア——そして、トシ、グーラ、シロガネ、クロ。さらに、いつの間にかガルムも気配を消して隅に伏せている。
「三日後、か」
トシが扇子を握りしめて言った。
「ああ。お前、知ってたのか」
「薄々な。でも——戦神本人が来るとは思わなかった。あいつは神々の中でも別格だ。力も、そして——頑固さも」
「頑固」
「ああ。あいつは味なんて微塵も信じていない。すべてを戦力と効率で測る。そんな奴に、料理で勝負を挑むなんて——」
「できる」
俺は遮った。
「相手が神でも人間でも、やることは変わらない。腹を空かせた客に、うまい飯を作る。それだけだ」
グーラが静かに口を開いた。
「カズマ。戦神はかつて、私とトシの料理を食ったことがある」
「……そうなのか」
「ああ。神々の会議で、祝宴の折にな。我々は最高の料理を捧げた。しかし戦神は——一口食って、こう言った。『無駄だ。味は戦力にならぬ』と」
「それで」
「それ以来、戦神は祝宴に一度も姿を見せていない。奴にとって味とは——無駄な感覚なのだ」
「でも」
トシが続ける。
「兄貴と俺は、あの時、何かを見落としてたんだと思う。戦神は『無駄だ』と言ったけど——もしかしたら、無駄じゃない味を知らなかっただけかもしれない」
「なら、今度は俺が作る」
「ああ。俺も手伝う。食神として——戦神に、味を教えるために」
アリシアが一歩前に出た。
「師匠。私も——何か作らせてください。戦神に捧げる一皿の、一部でいい。私の料理を」
「いいのか。相手は神だ」
「はい。私は戦えません。でも——料理で、誰かを支えたい。それが私の決意です」
「わかった。だが、無理はするな」
「はい」
シノも続いた。
「俺も!俺も作ります!卵かけご飯——いや、今の俺にできる何かを!」
「よし。二人とも、明日から特訓だ」
夜、屋台を閉めた後、俺は一人で仕込みをしながら考えていた。
戦神——味を無駄と断じた神。グーラとトシの料理を拒絶した神。そんな相手に、何を作るべきか。
答えは、まだ見つからない。だが一つだけ確かなことがある。それは——俺だけの料理ではないということだ。ここに集まったすべての者の味を、一皿に込める。それが、戦神に捧げるべき料理だ。
「なあ、カズマ」
トシがそばに座った。今日はいつもの軽口がない。
「もし——もし、お前の料理が戦神に届かなかったら」
「その時はその時だ」
「でも——」
「トシ。お前は食神だ。食を司る神が、料理の力を信じなくてどうする」
「……そうだな」
「大丈夫だ。俺は今まで、神も将軍も獣も、みんな飯で満足させてきた。戦神だけが例外のはずがない」
トシはしばらく黙っていたが、やがて新しい扇子を広げた。
「わかった。信じるよ。お前の料理を。そして——俺たちの味を」
遠くの空で、冬の星が瞬いている。
(第41話 終)
▼ 次回予告(第42話用の引き)
戦神に捧げる一皿を構想するカズマ。しかし、何を作ればいいのか——答えはまだ見つからない。
一方、アリシアとシノはそれぞれ、自分にできる料理を模索し始める。
そして屋台には、思いがけない客が——
「カズマ殿。戦神に捧げる料理——私にも、一品作らせてほしい」
現れたのは、元・戦神の将軍マクシミリアンだった。
(次話:「捧げる一皿」)




