第40話「王女の決意」
マクシミリアンが屋台を去ってから、王都には再び平穏が戻っていた。
戦神の本隊が引き上げたという報せは瞬く間に広がり、屋台の常連たちは「さすがカズマの飯だ」と誇らしげに語り合っている。もっとも、当の俺はいつも通りに握り飯を握り、味噌汁をよそい、シノに包丁の握り方を教えるだけの日々だ。
冬の気配が少しずつ濃くなり、市場の木々が赤や黄に色づき始めている。朝の空気は冷たく、味噌汁の湯気がいつもより白く立ち上る季節になっていた。
その朝、アリシアが訪れたのは、いつもより少し早い時間だった。
お忍びのマントをまとい、フードを目深にかぶっているのはいつも通りだ。しかし今日は、後ろにマルグリット侍従長の姿がない。完全に一人で来たらしい。それだけでも、ただならぬ気配があった。
「カズマ殿。おはようございます」
「アリシア。早いな。朝飯はまだか」
「はい。ですが——その前に、少しお話が」
彼女はカウンターの端に座り、フードを外した。解毒が進んだ彼女の顔は、爛れの痕がずいぶん薄くなっている。まだ完全ではないが、以前のような痛々しさはもうなかった。そして何より——彼女の両目が、まっすぐに俺を見つめている。
「カズマ殿。私は——決めました」
「なにを」
「王女としてではなく、一人の人間として——あなたの屋台で、料理を学びたい」
広場が静まった。リリアが顔を上げ、グレゴールが手を止め、シノが包丁を握ったまま固まる。エレナが無言でアリシアを見つめ、将軍とギリアムも驚いた表情で振り返った。
「……王女が、料理を」
「はい。私はこれまで、料理を作ってもらうだけの存在でした。母上に、王宮の料理人に、毒味役に——そしてあなたに。でも、ジルベールの解毒で味覚が戻り、あなたの料理を食べて、初めて知りました。料理とは、誰かのために作るものだと。そして——私も、誰かのために作りたい」
「誰かのために」
「はい。この国には、まだ味覚を失った者がいるかもしれません。毒に苦しむ者がいるかもしれません。あるいは——ただ、温かい飯を食べたことのない子供たちが。私は、そんな者たちのために、料理を作れる人間になりたい」
「王女としての責務は」
「王女としても、です。でも——王女だからこそ、誰かのために料理を作る姿を見せることに、意味があると思います」
俺はしばらく彼女の目を見つめてから、うなずいた。
「わかった。ただし、条件がある」
「なんでしょう」
「弟子はシノが先だ。お前は二番目の弟子だ。シノを兄弟子と呼べ」
「……兄弟子」
「嫌か」
「いいえ!」
アリシアはぱっと笑顔になり、シノに向き直った。
「シノ殿。これからは兄弟子と呼ばせていただきます」
「え、ええ!?ぼ、僕が兄弟子!?王女様の!?」
「はい。よろしくお願いします」
「ちょ、ちょっと待ってくださいカズマさん!俺、まだ卵かけご飯しか作れないのに!」
「なら、教えろ。卵かけご飯の作り方を」
「……はい!」
シノは真っ赤になりながらも、包丁を握り直し、ネギを刻み始めた。アリシアはその手元を真剣な目で見つめている。
リリアが呆れた顔で言った。
「あんた、また弟子を増やしたな」
「増えたのは二人目だ」
「そのうち十人くらいになりそうだ」
「そうなったら、屋台を広げる」
昼前、アリシアの最初の修業として、俺は彼女に米の研ぎ方を教えることにした。
「米は料理の基本だ。これを研げずして、他の何も始まらない」
「はい」
「水は冷たい。手がかじかむ。それでも、米は丁寧に研げ。米粒を傷つけるな。力を入れすぎるな。優しく——でも、確実に」
アリシアは井戸端で、桶に手を入れて米を研ぎ始めた。冷たい水に指が赤くなり、それでも彼女は懸命に研ぎ続ける。その姿は、とても王女には見えなかった。ただの——料理を学ぶ若者だった。
「……なあ、グレゴール」
「なんだ」
「王女が厨房に立つことについて、どう思う」
「良いことだと思う。立場に関係なく、誰かのために料理を作りたいと願うこと——それが、料理人の原点だ。聖餐庁も、かつてはそうだった」
「かつては」
「ああ。いつからか、料理は権威と規則に縛られるようになった。しかし——お前の屋台は、それを解いている」
「解いているのは俺じゃない。ここに集まる客たちだ」
「そうだな」
午後、アリシアは初めて自分で研いだ米を炊き、初めて自分で握ったおにぎりを完成させた。形はいびつで、塩加減もまだ不安定だったが——それでも彼女は、おにぎりを胸に抱き、涙を浮かべた。
「……できた」
「ああ」
「私が、誰かのために作った初めての料理です」
「誰に食わせる」
「……まずは、あなたに」
俺はそのおにぎりを受け取り、一口かじる。塩が少し多い。米が少し硬い。でも——温かくて、米の甘みがちゃんとある。何より、このおにぎりには「誰かのために」という想いが詰まっていた。
「うまいよ」
「……本当ですか」
「ああ。明日はもっとうまくなる。その次はもっとだ」
「はい!」
アリシアは涙をぬぐいながら、大きくうなずいた。シノが拍手し、リリアが口元を緩め、エレナが無言で新しい漬物を差し出す。グレゴールが静かにうなずき、将軍とギリアムが固い握手を交わした。
カウンターの隅で、トシがそっと姿を現した。
「王女が弟子か。いいね。戦神が来たら、驚くだろうな」
「戦神はいつ来る」
「さあ。でも——遠くないと思うよ。マクシミリアンが持ち帰った報告で、戦神本人が動き始めたらしい」
「報告にはなんて書いてあったんだ」
「『カズマの料理は、戦術食としての価値を超える。接収には及ばず。ただし——定期的な試食を推奨する』」
「……真面目な報告だな」
「マクシミリアンは真面目な奴だからな。でも、戦神は納得しないだろう。『定期的な試食』なんて、戦神にとっては意味不明だろうから」
「だろうな」
「で——どうする」
「来るなら来い。来たら、まず飯を食わせる。それだけだ」
トシは新しい扇子を広げて笑った。
「じゃあ、俺もそろそろ準備しとくか。食神として——戦神に、味を教えるために」
夕暮れ、屋台を閉めた後、アリシアは一人、カウンターに残っていた。手には、自分が握ったおにぎりをそっと包んだ布がある。
「カズマ殿」
「なんだ」
「私が料理を学びたいと思ったのは——もう一つ、理由があります」
「聞こう」
「戦神が、あなたを狙っている。神々が、あなたの力を欲しがっている。私は——王女として、いえ、一人の人間として、あなたを守りたい。でも、戦うことはできない。毒味もできない。だから——」
「料理を作れるようになりたい、と」
「はい。あなたが戦神と向き合う時、あなたの隣で料理を作り、誰かに食べてもらいたい。それが——私の決意です」
俺はしばらく彼女を見つめてから、言った。
「いい覚悟だ。だが——無理はするな。料理は、誰かを守るためにあるが、自分を犠牲にするものじゃない」
「はい」
「明日も米を研げ。その次は、味噌汁の作り方を教える」
「はい!」
アリシアは深く一礼し、包みを抱えて王宮へと帰っていった。
それを見送りながら、俺はふと思う。弟子が二人、常連が数えきれないほど。屋台はもう、俺だけの場所ではない。ここに集まるすべての者の場所になっている。
だからこそ——守らなければならない。戦神が来ようと、神々が来ようと、この屋台は開け続ける。
(第40話 終)
▼ 次回予告(第41話用の引き)
アリシアが弟子入りして二週間。彼女の上達は目覚ましく、今では焼きおにぎりも一人前を任せられるほどになった。
しかしそんな矢先——神域から、ついに正式な通告が届く。
「戦神が、カズマの屋台に親征する。期日は——来週」
(次話:「戦神親征」)




