第39話「戦神の右腕」
ヴァルケンたちが常連になってから三日、屋台はまた少しだけ賑やかになっていた。
黒衣を脱ぎ、普通の旅装束に身を包んだ戦士たちは、週に二度は必ず屋台に現れる。大柄な男は味噌汁定食、細身の男は焼きおにぎり、年少の戦士は卵かけご飯——それぞれがすっかり「自分の定番」を見つけていた。最初は緊張した面持ちだった彼らも、今ではシノと包丁の研ぎ方を語り合い、常連客たちともすっかり顔馴染みになっている。
「カズマ殿、今日の味噌汁はいつもより濃いな」
「寒くなってきたから、味噌を少し増やした」
「なるほど。体が温まる」
大男が満足そうに茶碗を抱えている姿は、とても神の軍勢には見えなかった。
その日、いつも通り屋台を開けていると——昼過ぎに、トシが姿を現した。
ただし今日は、いつもののんびりした様子ではない。着物の裾が乱れ、扇子は握りしめたままで開かれず、金色の目がいつになく真剣だった。気配を消さずに現れたため、常連客たちは突然現れた着物姿の男に驚いている。
「カズマ。話がある」
「どうした」
「戦神が——ヴァルケンの報告を却下した」
「……却下」
「ああ。『先遣隊の判断は甘すぎる。カズマの料理は戦力として有用である。接収を強行せよ』——これが戦神の結論だ。今度は“本隊”が来る」
広場の空気が凍りついた。リリアが立ち上がり、グレゴールが鍋を置き、ギリアムと将軍が同時に身構える。ヴァルケンと戦士たちも、その場に固まっていた。
「本隊——というと」
「戦神の右腕と呼ばれる将軍神、マクシミリアンだ。奴は本物だ。俺たち食神や味覚神とは次元が違う。戦闘に特化した神で、自ら戦場に立ち、無数の敵を屠ってきた。そして——」
「そして」
「奴は、料理を“戦術食”としか見なさない。味は不要、栄養と効率だけがすべて——そういう男だ」
ヴァルケンが深く頭を下げた。
「カズマ殿。私の力が及ばず、申し訳ない」
「お前のせいじゃない。報告は正直に書いたんだろう」
「ああ。だが——戦神はそれを認めなかった」
「なら、今度はマクシミリアンとやらに、直接、飯を食わせるだけだ」
「……正気か。奴は戦神の右腕。先遣隊とは桁が違う」
「相手が誰でも、やることは同じだ」
カウンターの隅で、いつの間にかグーラが姿を現していた。シロガネとクロも、気配を消して並んでいる。フェンリルの親子まで王都に来ているとは知らなかった。
「トシ」
グーラが静かに言った。
「マクシミリアンは、我々が神々の会議にいた頃の——あのマクシミリアンか」
「ああ。兄貴も覚えてるだろ。あの無表情の軍神だよ」
「覚えている。奴は神々の中でも、最も“味”を理解しない男だった。すべてを戦術と効率で測る。味覚など、奴には無駄な感覚なのだ」
「でも——」
トシが扇子を握り直す。
「カズマは、そういう奴にこそ飯を食わせてきたんだよな」
「そうだ」
「よし。じゃあ、俺も覚悟を決めるか。食神として——戦神に喧嘩を売る」
シロガネが尾を揺らしながら言った。
「ガルムも連れてくる。飢餓の獣も、味を覚えた今なら役に立つだろう」
「頼む」
クロがくぅんと鳴き、俺の足にすり寄った。
その日の夕暮れ、市場に異変が起きた。
空が、不自然に暗くなったのだ。夕焼けが灰色に染まり、風が止み、鳥の声が消えた。市場の喧騒がしんと静まり、誰もが空を見上げて立ちすくむ。
そして——広場の中央に、光の柱が降り立った。
それはトシが現れた時のように優しい光ではなかった。冷たく、重く、見る者の心を押しつぶすような鋼色の光。柱が収束し、中から現れたのは——
一人の巨漢だった。
全身を鋼鉄の鎧で包み、背には身の丈を超える大剣。顔は無表情で、傷跡がいくつも刻まれている。年の頃は四十代に見えるが、神の齢は人間の尺度では測れない。その両目は無機質な灰色で、まるで感情というものが最初から存在しないかのようだった。
「戦神の右腕、マクシミリアンだ」
トシが小声で言う。
「あれが——将軍神」
「ああ。見ただけでわかる。奴は強い。強さだけが、奴の存在理由だ」
マクシミリアンの背後には、さらに数十人の兵士たちが控えていた。全員が黒い鎧に身を包み、顔は兜で隠されている。神の軍勢——本物の、戦神の本隊だった。
マクシミリアンはゆっくりと屋台に向かって歩き始めた。一歩ごとに地面が震え、周囲の空気が悲鳴を上げるようだった。
「——カズマ」
声は、鉄が軋むような響きだった。
「私は戦神の将軍、マクシミリアン。先遣隊の報告を却下し、自ら査察に来た」
「ご苦労なことだ」
「単刀直入に言う。お前の料理を、戦神の軍に提供しろ。拒めば——」
「拒めば」
「この屋台ごと、接収する」
リリアが弓を構え、ギリアムが大剣を抜き、将軍が杖を握り直した。グレゴールが静かに聖印を胸に当て、エレナが解毒の壺に手をかける。ヴァルケンと戦士たちが、仲間だった軍勢の前に立ち塞がろうとした。
「待て、全員」
俺は手を上げて仲間を制した。
「マクシミリアン。あんた、腹は減ってるか」
「……なに」
「腹が減ってるかと聞いている」
マクシミリアンの無表情が、かすかに揺らいだ。困惑——と呼ぶにはあまりに微かな変化だったが、それでも彼の灰色の目が、ほんの少しだけ俺を捉え直した。
「我々は神の軍勢。食事は効率と栄養だけで十分だ。腹が減っているかどうかなど——」
「減ってるんだな。なら、まず食え」
俺は厨房に立ち、土鍋に火をかけた。粥を作る。交流会で振る舞った「王国の夜明け粥」——粟と米を合わせ、岩塩をひとつまみ。シンプルで、温かく、誰かの顔を思い出す味。
「グレゴール、出汁巻き卵を一皿。エレナ、解毒スープを少し。リリア、焼きおにぎり。シノ——卵かけご飯から卵黄だけを」
「はい!」
「みんなの料理を、一つの粥にのせる。それが俺の答えだ」
粥が炊き上がり、みんなの料理が粥の上に並べられていく。湯気が立ち、様々な香りが混ざり合い、広場に広がった。それは戦神の圧力さえも押しのける、温かな香りだった。
「“王国の夜明け粥”だ。これを食え」
マクシミリアンは、粥の入った茶碗をじっと見下ろした。その無表情は変わらない。だが——彼は茶碗を手に取り、一口、粥をすくった。
それを口に運ぶ。
——次の瞬間、マクシミリアンの手が、ぴたりと止まった。
「……なんだ、これは」
「粥だ。この世界の粟と、異世界の米を合わせた」
「……温かい」
「粥は温かいものだ」
「違う。そうじゃない——」
彼はもう一口、粥を口に運ぶ。粟の甘みと米の食感、出汁巻き卵の柔らかさ、解毒スープの清涼な酸味、焼きおにぎりの香ばしさ、卵黄の濃厚なうま味——すべてが、彼の舌の上で一つに溶けていく。
「……私は」
マクシミリアンの声が、かすかに震えた。
「私は、何十年ぶりだ。こんなものを食ったのは」
「何か思い出したか」
「……母の粥だ。私は、戦神になる前——人間だった。貧しい村で、母が作る粟粥だけが、唯一の楽しみだった。しかし、戦に駆り出され、神に選ばれ——味を忘れた。思い出すことすら、許されなかった」
「思い出したなら、十分だ」
マクシミリアンは茶碗を置き、深く息を吐いた。無表情だった顔に、かすかな皺が寄り——それが泣き顔だと気づくまで、少し時間がかかった。
「……カズマ。私は戦神の右腕として、お前の料理を“接収”せねばならん。そう命令されている。だが——」
「だが」
「この粥を食って、思い出した。私は元々、誰かのために料理を作りたいと思ったこともあった。戦うことしか知らぬ私が、そんなことを——」
「料理人になれとは言わない。ただ——また食いに来い」
「……それで、任務は」
「任務は果たせ。接収する代わりに、定期的にここで飯を食え。それでどうだ」
「……戦神が許すとは思えん」
「戦神にも、いつか飯を食わせる。それで解決だ」
マクシミリアンはしばらく沈黙し、それから——かすかに口元を歪めた。笑っているのかもしれない。生まれて初めて笑ったのかもしれない。
「……面白い男だ。カズマ」
「よく言われる」
「では、今日のところは引き上げる。接収は——保留だ」
「ありがたい」
マクシミリアンは背を向け、鋼鉄の鎧を鳴らしながら歩き去ろうとした。が、ふと立ち止まり、振り返らずに言った。
「来週、また来る。その時は——粥の大盛りを頼めるか」
「ああ。大盛りは六百ゴールドだ」
「高いな」
「いい材料を使ってるからな」
「……わかった」
神の軍勢が広場を去り、空に再び夕焼けが戻った。灰色だった空が、茜色に染まっていく。
「……勝ったのか」
リリアが呆然と呟く。
「勝ったんじゃない。常連が一人増えただけだ」
「相手は戦神の将軍だぞ」
「将軍でも、腹は減る」
カウンターの隅で、トシが扇子を広げて大笑いした。
「あー、おかしい。マクシミリアンがあんな顔するなんて、神々の会議でも見たことないぞ。カズマ、お前すごいよ」
「すごくない。ただの屋台だ」
グーラが静かに微笑んだ。
「戦神の右腕が、粥で絆されるとは——神々の時代も変わるものだな」
「変わるさ。みんな腹を空かせてる」
ヴァルケンと戦士たちが深く安堵の息をつき、シノが興奮して飛び跳ねている。エレナが無言で新しい漬物を差し出し、グレゴールが鍋の火を弱め、ギリアムと将軍が固い握手を交わした。
クロがくぅんと鳴き、シロガネが尾を揺らす。
夜、屋台を閉めた後、トシが言った。
「でもな、カズマ。マクシミリアンは右腕だ。戦神本人は——もっと手強いぞ」
「わかってる」
「覚悟は」
「ああ。でも、やることは変わらない。飯を作って、食わせるだけだ」
トシは新しい扇子を広げ、星空を見上げた。
「戦神かあ。あいつも元は——味を知ってたんだろうな」
「たぶんな」
「なら、お前の料理で思い出すかもな」
「そう願う」
遠くの空で、冬の星が瞬いていた。
(第39話 終)
▼ 次回予告(第40話用の引き)
戦神の将軍を帰らせた報せは、王都中を駆け巡った。しかし——それに呼応するように、戦神本人が動き始めたという噂が神域から届く。
一方、屋台には久しぶりの客——王女アリシアが、少し改まった面持ちで現れた。
「カズマ殿。あなたに——話があります」
(次話:「王女の決意」)




