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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第35話「ギルドマスターの真意」



ギルドマスターが屋台を訪れたのは、それから三日後の昼下がりだった。


ヴァレンが事前に知らせてきた時刻より、一時間ほど早い。まだ客足が途切れた静かな時間帯で、俺はシノに包丁の研ぎ方を教えているところだった。グレゴールは寸胴の出汁を濾し、エレナは大根の皮を剥き、リリアは退屈そうにカウンターで茶をすすっている。いつもの穏やかな午後だ。


「カズマさん、ここでいいんですか」

「刃の角度は一定に。焦るな」

「はい……こう、ですか」

「そうだ。うまくなった」


そこへ、市場の石畳を軽やかに踏みしめる足音が近づいてきた。


見ると、小柄な老女が一人、ゆっくりと屋台に向かって歩いてくる。白髪を後ろで一つの束ねに結い上げ、藍染めの簡素なワンピースを着ている。年の頃は七十を過ぎているだろうか。背筋はまっすぐで、杖もつかず、その足取りに老いの翳りはなかった。そして彼女の胸には——フォークとナイフが交差した金の徽章が、控えめに輝いている。


後ろにはヴァレンが従い、さらに数人のギルド職員が緊張した面持ちで続いていた。


「カズマ殿」

ヴァレンが一歩前に出る。

「お約束より早く到着してしまい申し訳ない。こちらが——」

「よい、ヴァレン」


老女が静かに遮った。声はしわがれているが、どこか耳に心地よい響きがあった。

「私はエルナ。王都料理人ギルドのマスターを務めている。カズマ殿、噂はかねがね。そしてヴァレンから、あなたの味噌汁の話を聞いて——どうしても、自分の舌で確かめたくなった」

「歓迎します。腹は減ってますか」

「正直に言えば、朝から何も食べていない。楽しみで、つい」

「では、まず食ってください。話はそれからだ」


エルナは微笑み、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。ヴァレンと職員たちも、少し離れた場所に並んで座る。常連客たちは興味津々で、遠巻きにギルドマスターの姿を眺めていた。


「何が食いたいですか。味噌汁は基本だが、今日は焼き魚もある。卵焼きもある」

「では——味噌汁をいただこう。ヴァレンが絶賛した、あの味噌汁を」

「わかった」


俺は厨房に立ち、寸胴に火をかける。出汁は今朝、グレゴールが丁寧に取った煮干しと昆布の合わせ出汁だ。味噌は我が家の三年もの自家製味噌。豆腐は近所の豆腐屋から今朝届いたばかりの絹ごし。わかめは乾燥を戻し、ネギはシノが刻んだものがたっぷりある。


味噌汁一杯に、人生が詰まっている——そんな大げさな話ではないが、毎朝欠かさず作り続けている汁だ。俺の屋台の、原点の味だった。


「できた。味噌汁定食——ご飯と漬物つき。二百ゴールド」

「……なんと良心的な値段だ」


エルナは両手で茶碗を包み、まず汁を一口すする。それから豆腐を箸で割り、わかめを口に運び、ご飯をひとつまみ——。


その間、彼女は一言も発しなかった。ただ、ゆっくりと、味わうように食べ続ける。ヴァレンが固唾を呑んで見守り、ギルド職員たちが無言で成り行きを見つめていた。


完食まで、十分とかからなかった。


「……ごちそうさま」

エルナは箸を置き、深く息を吐いた。その目は潤み、しわだらけの手がかすかに震えている。

「カズマ殿。私は五十年間、王都の料理を審査してきた。星付きの高級店から、場末の屋台まで——数えきれぬ料理を食べてきた。だが——」

「だが」

「こんなに“誰かのために作られた味噌汁”を飲んだのは、初めてだ。これは料理の技術ではない。料理の心だ。そして心は——規則では縛れない」

「ありがたい言葉です」


エルナは顔を上げ、まっすぐに俺を見た。その老いた目は、驚くほど澄んでいた。

「カズマ殿。私は今日、単に味噌汁を味わいに来たのではない」

「そうだろうと思ってました」

「あなたに——頼みがある」


彼女は懐から一通の封書を取り出した。封蝋には料理人ギルドの金の徽章が押されている。

「来月、王都で“大陸料理人交流会”が開かれる。十年に一度の、大陸中の料理人が集う大祭だ。各国の代表が料理を振る舞い、互いの技を競い、交流する——表向きはな」

「表向き」

「裏の目的は、大陸の“食の主導権”を決める政治の場だ。どの国の料理が最も優れているか——それがそのまま、その国の発言力になる。そして今回、王国の代表として、私が料理を振る舞うことになっている」

「ギルドマスターが直々に」

「そうだ。しかし——私は、もう若くない。舌はまだ生きているが、包丁を握る手が震える。正直なところ、王国代表として恥ずかしくない料理を作る自信がない」


エルナは封書をカウンターの上にそっと置いた。

「カズマ殿。あなたに、王国代表の料理を依頼したい。私の代わりに——この大陸交流会で、腕を振るってほしい」

「……俺が」

「あなたの味噌汁は、間違いなく大陸のどの料理にも負けない。いや、味噌汁だけではない。あなたがこれまで生み出してきた料理の数々——焼きおにぎり、卵焼き、椎茸ご飯、柑橘鍋。そのすべてが、王国の、いや、この世界の宝だ」


広場が静まり返った。リリアが息を呑み、グレゴールが手を止め、シノが包丁を握りしめたまま固まっている。大陸交流会——それは、一国の代表として、文字通り世界を相手に料理を作るということだ。


「俺は、ただの屋台シェフだ。ギルドにも入っていないし、資格もない」

「資格など関係ない。私はギルドマスターとして、あなたを王国代表に推薦する権限を持っている。そして——」

「そして」

「この交流会には、西方の美食教団、北方の帝国軍、東方の自由都市同盟——みなが参加する。あなたの料理を、すでに知っている者たちも来るだろう。そしておそらく、あなたを狙う“何か”も」


「……戦神」

「ああ。神々の動きは、ギルドにも伝わっている。戦神が派遣した先遣隊——奴らもまた、この交流会に姿を現すだろう。あなたを査察し、危険と判断すれば——奪うために」


俺はしばらく考えてから、うなずいた。

「わかりました。引き受けます」

「カズマ」

リリアが口を挟む。

「あんた、正気か。戦神が来るってわかってて」

「わかってて、だ。交流会には世界中の料理人が集まる。なら——世界中の客に、俺の飯を食わせるいい機会だ」

「……あんたらしいな」


エルナは微笑み、封書を俺の手に押し頂いた。

「ありがとう、カズマ殿。これで私も、安心して老後を迎えられる」

「老後って、まだ包丁を握れるでしょう」

「握れるが——もう、誰かのために握るのは、少し疲れた。でも——」

彼女は立ち上がり、背筋を伸ばした。

「あなたの味噌汁を飲んで、もう少しだけ、誰かのために生きようと思えた。ありがとう」

「礼はいらない。また食いに来てください」

「そうさせてもらう。次は焼き魚を食べよう」

「いい選択です」


エルナはヴァレンと職員たちを従え、市場を去っていった。その後ろ姿は、来た時よりずっと軽やかに見えた。




夕方、屋台を閉めてから、いつもの面々がカウンターに集まった。


「大陸交流会、か」

グレゴールが静かに言う。

「十年前の交流会では、聖餐庁が王国代表だった。今回はギルド——そして、お前だ」

「聖餐庁も出てたのか」

「ああ。当時は私が料理を振る舞った。美食教団も来ていた。まだグーラの影響下にあった教団が——今やエグゼビアとアルデは味方だ。時代は変わる」


将軍が低く呟く。

「帝国も参加する。もし飢餓将軍ヴォルフガングがまだ生きていたら、奴が代表だっただろう」

「お前は行かないのか」

「私はもう帝国の将軍ではない。だが——影ながら見守ることはできる」

「助かる」


ギリアムが大剣を磨きながら言った。

「戦神の先遣隊も来るなら、会場の警備は必須だ。俺とランドルで手配する」

「頼む」


シノがおずおずと手を挙げた。

「カズマさん、俺も——何か手伝えますか」

「お前は、交流会までに卵かけご飯を完璧にしろ」

「はい!」

「それから——もう一品、何か作れるようになれ。簡単なものでいい」

「何を作れば」

「お前が誰に食わせたいかを考えろ。答えはそれからだ」


シノは包丁を握りしめ、深くうなずいた。


カウンターの隅で、トシがそっと姿を現した。新しい扇子が、燭台の灯りにきらめいている。

「いよいよだな。戦神が来る」

「ああ」

「どうする」

「料理を作る。それだけだ」


「……お前って、ほんとにそれだけだよな」

「屋台シェフだからな」


(第35話 終)




▼ 次回予告(第36話用の引き)


大陸交流会を目前に控え、王都には続々と各国の料理人たちが集まり始めた。美食教団のエグゼビアとアルデ、西方の食糧庁関係者、帝国の軍部——そして、人知れず降り立つ“神の先遣隊”。それぞれの思惑が交錯する中、カズマは交流会のための一皿を構想し始める。

(次話:「交流会前夜」)

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