第34話「料理人ギルドの介入」
シノが弟子入りしてから一週間が過ぎた。
毎朝、夜明け前に屋台に現れ、皿洗いから始めて、野菜の皮むき、出汁の取り方、米の研ぎ方——グレゴールが基礎を教え、エレナが毒見役時代の正確な手つきで下ごしらえの手本を見せ、リリアが時折、炭火の加減を口出しする。将軍とギリアムは市場の見回りついでにシノを連れて行き、食材の見極め方を教え始めていた。
「この魚、目が濁ってる。昨日のものだな」
「鮮度が落ちると、味噌汁に入れても生臭さが残る。気をつけろ」
「はい!将軍さん、ギリアムさん!」
シノは素直で、何より貪欲に学んだ。教えたことを一度で覚えられなくても、何度も繰り返し、包丁の握り方ひとつを日が暮れるまで練習している。母の形見の包丁は、グレゴールが研ぎ直したことで見違えるように切れ味を取り戻し、シノはそれを使うたびに、少しだけ誇らしげな顔をするようになった。
「師匠、今日のまかない、俺が作ってもいいですか」
「師匠じゃない。カズマだ」
「……カズマさん。卵かけご飯、練習したんです。ネギの刻み方も、グレゴールさんに教わりました」
「よし。作れ」
シノが緊張した面持ちで卵を割り、醤油を垂らし、刻んだネギを散らす。まだ不揃いだが、一週間前とは比べ物にならないほど上達している。彼が差し出した卵かけご飯を一口食うと、醤油の加減が絶妙だった。
「うまい。合格だ」
「……ほんとですか!」
「ああ。今日からお前の卵かけご飯は、まかないメニューに入れる。値段は二百ゴールドだ」
「ぼ、僕のが、メニューに……!」
シノは飛び上がって喜び、井戸端で皿洗いをしていたエレナに「メニュー入りです!」と叫びに行った。エレナは無表情のまま、かすかに口元を緩めた。
「若いって、いいな」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言う。
「ああ」
「あんた、あの歳の頃は何してた」
「……人に毒を盛る練習をしていた」
「朝から暗い話をしなくていい。ほら、客が来たぞ」
広場の入口から、見慣れない一団が近づいてくる。黒い正装に身を包み、胸にはフォークとナイフが交差した金の徽章——料理人ギルドの印だった。先頭を歩くのは、神経質そうな細面の男で、手には分厚い羊皮紙の束を抱えている。
「ここが、例の屋台か」
男は屋台の前で立ち止まり、値段表をじろじろと眺めた。
「私は王都料理人ギルド、基準審査官のヴァレンと申す。カズマ殿、あなたの屋台は——ギルドの定める“調理基準”に違反している」
広場にいた常連客たちがざわりと騒つく。シノが心配そうに顔を上げ、エレナが包丁を置いた。グレゴールが無言で一歩前に出る。
「調理基準」
「はい。ギルドが定めた“安全かつ適正な調理のための百二十か条”のうち、あなたの屋台は少なくとも十二条に違反しています。まず——営業許可証がギルド発行のものではない。調理場の衛生基準がギルド規定に達していない。提供する料理の価格がギルドの定める適正価格帯から逸脱している——」
「待て」
俺は団扇を置いた。
「俺の屋台は食糧庁の許可を得ている。調理院の総帥エドガー・ヴァン・ローゼンも認めた」
「食糧庁は食糧行政を司る機関。調理院は国家の味覚を司る機関。しかし——調理の“基準”そのものを定めるのは、王都料理人ギルドの専権事項です。いかに調理院の総帥が認めようと、ギルド基準に違反している以上、改善命令を出さざるを得ません」
「改善命令」
「はい。この書面に記された十二条の違反を、三十日以内に是正していただきます。従わない場合——屋台の閉鎖、および王都での調理業務の永久停止となります」
リリアが立ち上がった。
「おい、ちょっと待て。この屋台は何の問題もなく——」
「リリア」
俺は手で制した。
「ヴァレン、あんた、腹は減ってるか」
「……は」
「腹が減ってるかと聞いている」
ヴァレンはしばらくぽかんとしていたが、やがて眉をひそめた。
「減っているかどうかは——今は関係ない」
「関係ある。腹が減った状態で基準の話をしても、ろくなことにならない。まず食え」
「私はギルドの審査官です。賄賂や接待を受けるわけには——」
「賄賂じゃない。客として食うだけだ。俺の屋台は、誰でも客だ」
ヴァレンは口を開きかけて、やめた。彼の胃が、ぐうと鳴ったからだ。後ろに控えていた部下たちが、必死に笑いをこらえている。
「……仕方ない。一杯だけ、もらおう」
「よし。何がいい」
「簡単なものでいい。スープでも——」
「わかった」
俺は厨房に立ち、寸胴に火をかける。出汁はすでに取ってある煮干しと昆布の合わせ出汁。そこに豆腐とわかめを入れ、味噌を溶く。最後に刻んだネギを散らし、ご飯を一口分だけ添える。出来上がったのは——なんの変哲もない、ただの味噌汁とご飯。それだけだった。
「味噌汁定食だ。二百ゴールド」
「……これが」
「ああ。食え」
ヴァレンはおずおずと味噌汁をすする。その瞬間——彼の動きが止まった。
「……あたたかい」
「味噌汁は温かいものだ」
「違う。そうじゃない。これは——」
彼はもう一口すする。それからご飯を一口、口に運ぶ。その目が、見開かれる。
「出汁が、すごく丁寧だ。煮干しと昆布——それだけなのに、こんなに深い味になるのか」
「基本だ」
「豆腐も、絹ごしだな。舌の上でとろける」
「絹ごしは崩れやすいから、あまり味噌汁には使わない。でも、俺はこれが好きだ」
「……うまい」
ヴァレンは無言で味噌汁をすすり、ご飯をかきこみ、たくあんをかじった。完食するまで、わずか五分。彼は空になった茶碗を置き、深く息を吐いた。
「……私は、料理人ギルドで十年間、基準を審査してきた。レストランの格付け、料理人の資格、調理場の衛生基準——すべてを規則で縛り、守らせてきた。それが料理の質を守る唯一の方法だと信じてきた。だが——」
「だが」
「この味噌汁を規則で縛れるとは思えない。火加減を数値で決められるか。出汁の取り方を条文で縛れるか。豆腐の舌触りを点数で評価できるか。できない。できないのに——私は、それをしようとしていた」
ヴァレンは羊皮紙の束を静かに閉じた。
「改善命令は、取り下げます」
「いいのか」
「基準に違反しているのは事実です。しかし——この味を守るためなら、むしろ基準のほうを変えるべきだ。そう進言します。ギルドマスターに」
「あんた、変わり者だな」
「変わり者に言われたくない。それと——」
ヴァレンは少しだけ口元を緩めた。
「また食べに来てもいいか。今度は審査官ではなく、一人の客として」
「ああ。いつでも来い。今日のまかないは弟子の卵かけご飯だ」
「弟子がいるのか」
「昨日入ったばかりだ」
「……面白い屋台だ」
ヴァレンは羊皮紙を抱え直し、背筋を伸ばして市場を去っていった。その後ろ姿を見送りながら、リリアが呆れた声で言った。
「あんた、今度はギルドの審査官まで常連にしたな」
「常連じゃない。一回食っただけだ」
「絶対また来る」
「……まあ、来るだろうな」
グレゴールが静かに鍋をかき混ぜながら言った。
「料理人ギルドは王都の飲食業を牛耳っている。彼が味方になれば、今後、営業許可の更新も円滑になるだろう」
「ああ。でも、それより——」
「それより」
「あの審査官、いい舌を持ってた。ただの官僚じゃない。料理人としての素養がある」
夕方、ヴァレンから早速、一通の手紙が届けられた。
「カズマ殿。本日は失礼をした。ギルドマスターに貴殿の味噌汁のことを報告したところ、マスター自らが貴殿の屋台を訪れたいとの意向を示している。ついては、来週の定例会議の後、マスターと共に昼食に伺う。——ヴァレン」
「ギルドマスターが来るのか」
リリアが手紙を覗き込む。
「ああ。王都で最も権威のある料理人が、だ」
「なあ、ギルドマスターって、どんな人なんだ」
「さあな。だが——いい舌を持っているなら、歓迎する」
シノがおずおずと手を挙げた。
「カズマさん、そのギルドマスターって、すごい人なんですよね。僕も何か作っていいですか」
「お前が」
「はい。卵かけご飯、もっと練習して——カズマさんの味噌汁と一緒に出せたら、って」
「いい考えだ。やってみろ」
「はい!」
シノは嬉しそうに包丁を握り直し、ネギを刻み始めた。その手つきは、一週間前よりずっとしっかりしている。
カウンターの隅で、トシがそっと姿を現した。
「料理人ギルドかあ。この世界の料理人たちも、お前のことを無視できなくなったんだな」
「そうらしい」
「で、戦神の話は進んでるぞ。神域の兵が続々と集まって、ついに“先遣隊”が派遣されるらしい」
「先遣隊」
「ああ。神の戦士が何人か、この王都に降りてくる。目的はお前の“査察”——つまり、お前が危険かどうかの見極めだ」
「いつ」
「早ければ——来週」
来週。ギルドマスターの来訪と、戦神の先遣隊が重なる可能性がある。
「タイミングが悪いな」
「いや、むしろいいかもしれない。料理人ギルドが味方なら、戦神に対抗する材料が増える」
「神に対して、人間のギルドがどこまで通用するか」
「さあな。でも——」
トシは新しい扇子を広げて笑った。
「お前の味噌汁の前では、神もギルドマスターも同じ客だろ」
「そういうことだ」
(第34話 終)
▼ 次回予告(第35話用の引き)
ギルドマスターが屋台を訪れる日——現れたのは、白髪の老女だった。
「私がギルドマスターのエルナ。カズマ殿、あなたの味噌汁を味わいに来た」
しかし彼女の目的は、単なる試食ではなかった。
(次話:「ギルドマスターの真意」)




