第33話「弟子志願」
柑橘鍋の炊き出しから三日、王都はすっかり平穏を取り戻していた。
市場には活気が戻り、公爵残党の掃討を終えた監察局の姿も少なくなり、屋台の前にはいつもの常連たちが並んでいる。焼きおにぎりをかじる商人、椎茸ご飯をすする兵士、卵焼きに舌鼓を打つアリシア——彼女は今や、週に三度はお忍びで屋台に通う常連中の常連になっていた。最初はマルグリット侍従長が必ず同伴していたが、最近は一人でふらりと現れることもある。
「カズマ殿。今日の卵焼きは、いつもより甘い気がします」
「砂糖を少し増やしたんだ。お前の舌が回復してきたから、繊細な味もわかるようになってる」
「そうですか。嬉しい」
アリシアは微笑みながら、もう一切れを口に運ぶ。その横顔からは、十年前の暗い影はもう消えかかっていた。
「そういえば」
リリアが箸を置いて言った。
「今朝、市場の入口で変な若者を見かけたぞ。ボロボロの服で、手に包丁みたいなものを持って、ずっと屋台のほうを見てた」
「包丁」
「ああ。料理人志望かなにかか?やけに年季の入った包丁だった。刃が欠けてて、柄もぼろぼろで——あれじゃ何も切れないだろうに」
「どこに行った」
「さあ。ギリアムが見回りに行ったから、そのうち捕まるんじゃないか」
その言葉が終わらないうちに、広場のほうから重い足音が近づいてきた。ギリアムが、一人の若者の襟首を掴んで引きずってくる。将軍もその後ろに続き、腕を組んで難しい顔をしていた。
「カズマ。こいつが市場をうろついていた」
ギリアムが若者をカウンターの前に立たせる。
年の頃は十代の半ば——まだ成人していない。痩せた体に、継ぎ接ぎだらけの粗末な服。髪は伸び放題で、顔にはいくつかの擦り傷がある。だが、その両目だけは異様にぎらついていて、何かを必死に求める光が宿っていた。そして——その右手には、リリアの言った通りの、ボロボロの包丁が握られている。刃は欠け、錆が浮き、柄はぼろ布で巻かれて今にも崩れそうだった。
「お前、名前は」
「……シノ」
声はかすれ、喉の奥に詰まっているようだった。
「シノ。その包丁はなんだ」
「……母さんの形見です。うちは貧乏で、他に何も残らなかった。母さんはこれで料理を作って、俺を育ててくれた。でも——」
「でも」
「死にました。流行病で、去年」
シノの声は震えていたが、涙は出ていなかった。すでに泣き尽くした後のような、乾いた声だった。
「それで、なぜここに」
「……弟子にしてください」
「弟子」
「俺は、料理人になりたい。母さんの包丁で、誰かのために料理を作りたい。でも、料理なんて一度も習ったことがない。村でも相手にされなかった。王都に出て、いろんな店を回ったけど、どこも門前払いで——」
「それで、俺の屋台に」
「はい。噂を聞きました。屋台シェフのカズマは、相手が神でも将軍でも貴族でも、分け隔てなく飯を食わせるって。それで——もしかしたら」
シノはそこで言葉を切り、深く頭を下げた。ボロボロの包丁を両手で差し出し、震える声で言った。
「お願いします。俺を——弟子にしてください」
広場が静まった。リリアが眉をひそめ、グレゴールが無言で見守り、アリシアが胸の前で手を組む。
「弟子、か」
俺は包丁を見つめた。欠けた刃、錆びた表面、ぼろぼろの柄——使える代物ではない。だが、それでも——この少年がここまで持ち続けてきたものだ。
「今まで、一度でも料理を作ったことはあるか」
「あります。母さんの真似事で、何度か。でも——うまくできたことは、一度も」
「食べてもらったか」
「母さんに」
「うまいと言われたか」
シノはうつむき、小さく首を振った。
「母さんは、食う前に死にました。だから——誰にも、食ってもらってない」
俺は立ち上がった。
「よし。今から、お前が料理を作れ」
「……え」
「弟子になりたいなら、まず自分が作れるものを見せろ。何を作ってもいい。材料も、ここにあるものを使え」
「でも——俺、まともに包丁も握れなくて」
「関係ない。作りたいものを作れ。お前が誰に食わせたいかを考えろ」
シノはしばらく呆然としていたが、やがて——決意の表情でうなずいた。彼は屋台の厨房に立ち、おずおずと材料を見渡し始める。米、卵、ネギ、椎茸、豆腐、醤油、味噌——。
彼が手に取ったのは、米と卵とネギだけだった。
「……卵かけご飯、作りたいです」
「卵かけご飯」
「母さんが、一番好きだった。卵と醤油とネギだけで、お金がなくても作れる——母さんはいつも、これを嬉しそうに食べてました」
「いい選択だ。作れ」
シノは包丁を握り直した。欠けた刃でネギを刻み始める。手つきは覚束なく、刻み幅もばらばらで、何度も指を切りかける。それでも——彼は真剣だった。
米を研ぎ、土鍋で炊く。火加減を確認しながら、彼の額には汗が浮かんでいる。卵を割り、醤油を少し垂らし、刻んだネギを散らす。
「できました」
差し出された茶碗には、素朴な卵かけご飯が盛られていた。ネギは不揃いで、卵の混ざり具合も均一ではない。醤油の量も少し多い。
「誰に食わせる」
「……母さんに。でも——母さんはいないから」
「なら、俺が食う」
俺は箸を取り、一口、口に運ぶ。
醤油が少し濃い。ネギの大きさが不揃いで、食感にむらがある。米は少し硬い。卵の混ざり具合も不完全で、白身がところどころ固まっている——だが。
「……うまいよ」
「え」
「うまい。お前の母さんは、きっと喜んだはずだ」
「で、でも、俺の料理は——」
「技術じゃない。誰かのために作ったかどうかだ。お前は母さんのために、今、この卵かけご飯を作った。それは、間違いなく伝わってる」
シノの目から、初めて涙がこぼれた。彼は茶碗を受け取り、自分も一口食べて——それから、声を上げて泣き始めた。
「母さんに——食わせたかった。生きてるうちに、一度でいいから——」
「生きてるうちに食わせられなかったのは、つらいな」
「……はい」
「でも、今、お前が作ったそれを、俺が食った。お前の料理を食った人間が、ここにいる。それだけで、お前はもう料理人だ」
シノは涙に濡れた顔で、深く深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「礼はまだ早い。弟子になるなら、明日から毎朝、夜明けと共に来い。まずは皿洗いだ」
「はい!」
「包丁は、俺が研いでやる。欠けた刃も、鍛冶屋に頼んで直させる。それはお前の母さんの形見だ。お前が料理人になるまで——ずっと使い続けろ」
「……はい!」
夕暮れ、屋台を閉めた後、リリアが言った。
「弟子を取るのか」
「ああ」
「あんた、誰にでも飯を食わせるだけじゃなくて、誰にでも料理を教えるのか」
「教えを請う者には、教える。それだけだ」
「……あんたらしいな」
グレゴールが静かに言った。
「あの包丁は、私が研ごう。聖餐庁時代の技術だが、刃を蘇らせることはできる」
「頼む」
「それと——彼には基礎から教えるべきだ。包丁の握り方、火加減、出汁の取り方。私が初歩を担当する」
「助かる」
アリシアが微笑んだ。
「私も、いつか彼と一緒に料理を作りたいです。同じ初心者同士、励まし合えるかもしれません」
「王女が厨房に立つのか」
「王女でも料理は作れる——そう教えてくれたのは、あなたです」
カウンターの隅で、トシが扇子を揺らしながら言った。
「弟子かあ。お前もとうとう師匠になるんだな」
「師匠と呼ばれる柄じゃない」
「でも、あの子はお前に救われたよ。卵かけご飯ひとつで、一年間泣けなかった涙を流したんだ」
「料理にはそういう力がある。それだけだ」
「そういえば」
トシの声が少し低くなる。
「戦神の動き、さらに活発になってる。神域では兵が集められ、何人かの神がお前の“査察”を主張し始めた」
「査察」
「人間が神の力を二つも持つのは危険だ——と、そういう理屈だ。たぶん、来るぞ」
「いつ」
「正確にはわからん。でも、遠くない」
俺は包丁を研ぎながら言った。
「わかった」
「来るなら来い、か」
「違う。来るなら、その前に弟子の包丁を直す」
トシは笑って、新しい扇子を広げた。
翌朝、夜明けと共にシノは本当にやって来た。
目をこすりながらも、その手には研ぎ直された包丁が握られている。グレゴールが昨夜のうちに刃を蘇らせ、柄も新しい布で巻き直してあった。
「おはようございます、師匠!」
「師匠じゃない。カズマでいい」
「カズマ……さん」
「それでいい。まずは皿洗いだ。昨日の鍋と茶碗が山になってる」
「はい!」
シノは勢いよく返事をし、井戸端で皿洗いを始めた。まだ不慣れな手つきだが、その目は昨夜とは違う輝きを宿している。
リリアがあくびをしながらカウンターに座る。
「若いって、元気だな」
「ああ」
「あんたも昔はあんなだったのか」
「どうかな。ずっと昔すぎて覚えていない」
朝の光の中で、屋台には新しい風が吹いていた。
(第33話 終)
▼ 次回予告(第34話用の引き)
シノが弟子入りして一週間。彼の真面目さに、常連たちも温かく見守る中——思わぬ来客が屋台を訪れる。
「王都の料理人ギルドから派遣されました。カズマ殿——あなたの屋台は、ギルドの定める“調理基準”に違反しています」
料理人の世界を仕切るギルドが、ついに介入を始めた。
(次話:「料理人ギルドの介入」)




