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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第29話「毒味の闇市」



王都の地下には、かつて旧下水道として使われていた迷宮のような空間が広がっていた。


石造りの天井は低く、壁には数百年分の煤と黴がこびりついている。空気は冷たく湿り、かすかに腐敗した水の匂いがした。松明の灯りだけが、狭い通路をぼんやりと照らしている。


「この先だ」

ヴィオラから渡された地図を手に、俺は足を進める。

「気をつけろ。毒味の闇市には、貴族から犯罪者まで、あらゆる者が集まる。正気の場所じゃない」

ギリアムが大剣を背負い直しながら言った。彼は帝国の軍務庁で、似たような闇市の噂を聞いたことがあるらしい。

「毒を愛する者たちの宴——食の裏側に、こんな世界があったとはな」

将軍が低く呟く。

「食を拒絶していた私には、想像もできん」


リリアが弓を握りしめ、エレナが無言で俺の隣を歩く。彼女は元毒味役として、こうした毒の世界に近い場所で生きてきた。その表情は硬く、目だけが鋭く光っていた。


「カズマ、例の麻婆豆腐は」

「ここにある」

俺は手に持った重箱を示した。中には、さきほど作ったばかりの激辛麻婆豆腐が、まだ湯気を立てている。四川花椒の痺れる香りが、下水の腐臭を押しのけてあたりに漂っていた。


やがて、通路の先に鉄の扉が現れた。扉には毒蛇と髑髏が刻まれ、両脇には黒衣の男が二人立っている。仮面をつけ、手には細身の剣が握られていた。


「止まれ」

一人が声をかける。

「入場には毒の一皿が必要だ。料理人と、毒見役だけが通れる」

「これが俺の一皿だ」

重箱を開けると、麻婆豆腐の強烈な香りが広がった。黒衣の男は一歩たじろぎ、仮面の奥で目を細める。

「これは——ただの辛い料理ではないな」

「毒か薬か。毒見役に判定してもらう」

「よかろう。毒見役を呼べ」


鉄の扉の横にある小さな窓が開き、中から一人の男が現れた。白髪交じりの痩せた老人で、目は濁り、唇は紫色に変色している。長年、毒を味わい続けた者の特徴だ。


「この香り——花椒、唐辛子、それから微量の岩塩。岩塩に含まれるミネラルが、舌の麻痺を促進しているな」

老人は呟きながら、スプーンで麻婆豆腐を一口すくった。それを口に含み、目を閉じる。


「……辛い。舌が焼ける。喉が閉まる。これは——苦痛だ」

「だが」

「だが、その奥に——うま味がある。深い、深い豆板醤のうま味と、豚ひき肉の脂の甘み。これは毒ではない。毒の仮面をかぶった、極上の一皿だ」

老人は目を開け、口元を歪めた。笑っているのか苦しんでいるのか、判別できない。

「面白い。これを作ったのは誰だ」

「俺だ」

「名は」

「カズマだ」

「……カズマ。聞いたことがある。屋台シェフが、神に料理を食わせたという噂を。なるほど——これは、神が舌を焼く味だ。入場を許可する」


鉄の扉が、重い音を立てて開かれた。




扉の向こうは、別世界だった。


旧下水道の広大な空洞に、無数の燭台が灯され、赤と黒の帳が垂れ下がっている。中央には長いテーブルがいくつも並べられ、その上には——見たこともない料理の数々が所狭しと並べられていた。


緑色に光るスープ、紫色の湯気を立てる蒸し物、黒い泡で覆われた焼き魚。どれもが、毒と隣り合わせの危険な香りを放っている。そして、それらを囲むのは、仮面をつけた貴族たち、異様な衣装の料理人たち、そして——明らかに薬物で瞳孔の開いた者たちだった。


「気持ち悪い場所だ」

リリアが小声で言う。

「空気だけで舌が痺れそうだ」

「毒の料理は、香りだけで客を酔わせる。気をつけろ」

エレナが警告する。

「私はかつて、こうした場所で毒味をさせられたことがある。ここは——味覚を殺す場所です」


俺は会場を見渡しながら、奥にある一段高い場所に目を止めた。そこには玉座のような椅子が置かれ、痩せた男が一人、だらりと腰かけている。


白髪混じりの長い髪、落ち窪んだ頬、黒ずんだ唇。年は五十代半ばだろうか。全身を黒衣で包み、手には銀の杯が握られている。その杯からは、かすかに甘い毒の香りが漂っていた。


「——あれが、ジルベールか」

「たぶんな」将軍がうなずく。「見ただけでわかる。奴は常に毒を摂取している。自分の体を毒に染めているんだ」

「なぜそんなことを」

「毒を完全に使いこなすには、自分が毒そのものになるしかない。奴は——人間をやめたのだろう」


ジルベールの周りには、彼を崇拝するように数人の料理人たちがひざまずいている。彼らが差し出す毒の一皿を、ジルベールは次々に口に運び、時折うなずき、時折笑みを浮かべていた。


その時——ジルベールの視線が、まっすぐに俺を捉えた。


「……その顔」

彼の声は、驚くほど静かで、よく通った。

「知っている。遠い昔に——いや、遠い世界で。お前は、組織の下っ端だったな。名は——カズマ」

「覚えてるのか」

「覚えているとも。お前は、私が調合した毒で殺されたはずだ。それがなぜ、ここに」

「転生した。お前と同じだ」

「……そうか」


ジルベールはゆっくりと立ち上がった。その動きは優雅で、まるで毒蛇が鎌首をもたげるようだった。

「では、同郷のよしみで歓迎しよう。毒味の闇市へようこそ、カズマ。お前も毒の一皿を持ってきたのか」

「ああ」

「見せてみろ」


俺は重箱を差し出した。ジルベールはそれを開け、中身を覗き込む。

「麻婆豆腐。それも——激辛の」

「そうだ」

「なぜこれを」

「毒の一皿を求められたからだ。これは、食う者を選ぶ。毒と紙一重の辛さだ」

「面白い」


ジルベールはスプーンを取らず、素手で麻婆豆腐をすくい上げた。手が焼けるはずなのに、彼の指は平然としている。毒に染まった皮膚には、熱さも痛みも感じないのだろう。


彼はそれを口に運び、目を閉じる。


「……なるほど」

「どうだ」

「花椒の痺れ、唐辛子の灼熱、そして岩塩のミネラルが舌を麻痺させる。これは——毒だ。間違いなく毒だ。だが——」

「だが」

「この豆板醤のうま味は、本物だ。豚肉の脂の甘みが、舌の奥で溶ける。これは毒ではない。毒の皮をかぶった、料理だ」


ジルベールは目を開け、じっと俺を見つめた。

「カズマ。お前は毒を料理に変えた。なぜだ。お前はかつて、毒で人を殺す側だったはずだ」

「殺すのに飽きたからだ。今は、食わせることで生きている」

「食わせることで」

「あんたも、本当は知ってるはずだ。毒を盛るより、飯を作るほうがずっと難しいことを」


ジルベールの顔が、わずかに歪んだ。それは怒りか、それとも——かすかな悲しみか。

「……お前は、私を改心させようとしているのか」

「違う。ただ、あんたの作る“毒の料理”を食ってみたい。その上で——俺の飯も食ってほしい」

「私が毒をやめると思っているのか」

「思ってない。だが、あんたが本当に飢えているのは、毒じゃない。誰かと食う飯だ」


ジルベールはしばらく沈黙し、それから——笑った。その笑いは、闇市の空気を震わせるような、底知れぬものだった。

「面白い。実に面白い。では——明日の夜、この場所で、勝負をしよう。お前と私。料理対決だ」

「料理対決」

「ああ。テーマは——“毒”。互いに毒の一皿を作り、それを食わせ合う。どちらがより“毒”として優れているか。そして——」

「そして」

「負けた方は、その毒で死ぬ。それでどうだ」


リリアが息を呑み、ギリアムが大剣に手をかけた。将軍が低く唸り、エレナが青ざめる。


俺は静かにうなずいた。

「いいだろう。ただし、条件がある」

「なんだ」

「あんたが負けたら、王女に盛った毒の解毒方法を渡せ。そして——この闇市を閉じろ」

「お前が死んだら」

「その時は、好きにしろ」


ジルベールは銀の杯を掲げ、不気味に笑った。

「いいだろう。明日の夜、再びここで会おう。楽しみだ——元・毒使いの料理人」


(第29話 終)




▼ 次回予告(第30話用の引き)


毒の料理対決——ジルベールが用意したのは、異世界から取り寄せた絶毒の食材。

対するカズマは、何を選ぶのか。

「毒で殺すんじゃない。毒を“味”に変える。それがあんたに足りないものだ」

(次話:「毒の料理対決」)

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