第28話「宮廷の影と毒の過去」
王女アリシアが公務に復帰してから、王都の空気は確かに変わり始めていた。
街の辻々では「王女様が十年ぶりに御姿を現された」「しかも市場の屋台に通っておられる」という噂で持ちきりだ。東市場の俺の屋台には、その姿を一目見ようと野次馬が集まり、常連の商人や冒険者たちは「お忍びの姫様」を温かく迎え入れた。アリシア自身も、屋台に来るたびに少しずつ表情が柔らかくなり、先日などはリリアと焼きおにぎりの醤油の濃さについて真剣に議論していた。
「王女様、醤油は焦がしすぎないほうが香りが立つんです」
「でも、この焦げた部分が香ばしくて好きなの」
「……わかってるじゃないですか」
「えへん」
そんな平和な光景が、ずっと続けばよかったのだが——。
その日、屋台を訪れたヴィオラの顔は、いつになく硬かった。
「カズマ。話がある」
「朝飯は」
「……食ってる場合か」
「食え。話はそれからだ」
ヴィオラは口を開きかけて、観念したようにため息をつき、カウンターに座って焼きおにぎりを一つ注文した。彼女が半分ほど食べ終えたところで、俺は湯呑みを差し出しながら言った。
「で、何があった」
「……十年前の王女毒殺未遂事件。あの事件の首謀者は、すでに処罰されたことになっている」
「ことになっている」
「建前上はな。だが実際には、黒幕は捕まっていない」
「誰が黒幕だ」
「一番怪しいのは——元王弟、ラザフォード公爵だ」
ヴィオラは声を潜めた。
「ラザフォード公爵は先王の異母弟で、十年前は次期王位継承の筆頭候補だった。しかし王女が成人すれば、彼の継承権は後退する。公爵は王女を毒殺し、自分の子を王位につけようとした——と、ここまでは表向きの説だ。裁判で有罪になり、公爵家は取り潰し、公爵自身も獄中で死んだ」
「だが、違うのか」
「違う。公爵は獄中で死んでいない」
俺は団扇を置いた。
「生きてるのか」
「わからん。ただ、当時、公爵に仕えていた毒師が、今もどこかに潜伏しているという噂がある。名を——ジルベール。異世界から来た毒使いで、かつては公爵のためにあらゆる毒を調合していた。王女の顔を爛れさせたのも、味覚を奪ったのも、そいつの毒だ」
「異世界から来た毒使い」
「そうだ。奴は——カズマ。お前と同じ“転生者”らしい」
「……なに」
リリアが顔を上げ、グレゴールが手を止め、エレナが包丁を握り直す。カウンターの隅で気配を消していたトシも、かすかに息を呑んだ。
「転生者」
「ああ。奴はかつて、お前と同じ日本の裏社会で——“毒師”と呼ばれていた男だ。お前が知っている可能性もある」
「毒師……ジルベール」
記憶の奥底が、ちりりと焼ける。その名を、俺は知っていた。前世の組織で、最も恐れられていた毒の専門家——直接会ったことはない。だが、俺が最後に盛られた毒も、あいつが調合したものだと聞いたことがある。
「ジルベールは、公爵の失脚と同時に姿を消した。だが、近年、王都の地下で“毒味”の闇市が開かれているという情報がある。毒を使った料理を競う、狂った宴だ。その主催者が——ジルベールらしい」
「毒の料理」
「そうだ。そして奴はおそらく——王女が再び表舞台に立ったことを知り、再び動き始める」
その夜、俺は屋台を閉めた後、一人で仕込みをしながら考えていた。
ジルベール。転生者。同じ日本の裏社会から来た毒使い。あいつが王女の顔を爛れさせ、味覚を奪い、今もなお王都の闇に潜んで毒の料理を広めている。
「なあ、カズマ」
トシがそっと姿を現した。今日はいつもより静かな顔だった。
「そのジルベールって男、お前と同じ“異世界デリバリー”を持ってるかもしれない」
「なに」
「俺の舌はお前のところにある。でも——味覚神の力は、一つじゃない。兄貴が昔、自分の“毒味”の権能の一部を人間に貸したことがあると言っていた。もしかすると、それがジルベールって男に——」
「毒味の権能」
「そうだ。奴が毒を使いこなせるのは、神の力の欠片を持ってるからかもしれない」
俺は包丁を研ぎながら考え込んだ。
「つまり、あいつは俺の“味覚”の対極にある男ってことか」
「そういうことになるな」
「なら、会わなければならない」
「カズマ」
「王女の顔を爛れさせ、味覚を奪い、今も誰かを毒で苦しめている。そんな男が、同じ転生者で、神の力を持っているなら——なおさらだ」
「戦うのか」
「違う。飯を食わせる」
「……毒使いに、か」
「毒使いほど、本当の味を知らない者はいない。俺がそうだった」
翌日、屋台に現れたヴィオラに、俺は単刀直入に言った。
「ジルベールに会いたい」
「……正気か」
「正気だ。あいつが主催している“毒味の闇市”——そこに俺を潜り込ませろ」
「カズマ。奴は危険なんだぞ。お前と同じ転生者で、毒の専門家で——」
「だからだ。あいつが毒を広げれば広げるほど、誰かの味覚が奪われ、誰かが苦しむ。それを止められるのは——毒を知る料理人だけだ」
ヴィオラは長い間、俺の目を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「わかった。食糧庁の調査網で、闇市の場所を突き止める」
「頼む」
「ただし——絶対に一人では行くな。リリア、ギリアム、将軍——仲間を連れていけ」
「ああ」
「それと——」
ヴィオラは一枚の紙片を差し出した。闇市の噂が記された情報だ。
「気をつけろ、カズマ。奴は——お前を待っているかもしれない」
三日後、ヴィオラから連絡が入った。
「闇市の場所がわかった。王都の地下——旧下水道の一つで、明晩、開催される。ただし、入場には“毒の一皿”を持参する必要がある。毒見役が認めた者のみが入れる」
「毒の一皿」
「お前、作れるのか」
「作る。毒ではないが——奴らが“毒”と認める一皿を」
俺は厨房に立ち、一つの鍋に火をかけた。作るのは——激辛麻婆豆腐。四川の花椒、唐辛子、豆板醤を異世界デリバリーで取り寄せ、豆腐はこの世界の木綿を使う。辛さは控えめに、しかし——口に入れた瞬間、痛みと共にうま味が広がる、ぎりぎりの一皿。
そして隠し味に、無味砂漠の岩塩を微量だけ加える。ミネラルが舌を麻痺させ、辛さを倍増させる効果がある。
一口食えば、舌が焼けるような激痛——だが、その奥に紛れもないうま味がある。毒か、薬か。それを判じるのは、食う者次第だ。
「できた。これを毒味に出してくる」
リリアが心配そうに見つめる。
「あんた、一人で行くつもりか」
「いや。今回は——エレナ、来てくれ」
「……私ですか」
エレナが顔を上げる。元・毒味役の彼女は、静かにうなずいた。
「毒味の世界なら、私の専門です」
「ああ。頼む」
「それから——」
リリアが弓を背負い、ギリアムが大剣を肩にかける。
「勝手に行くなとは言わない。でも、私も行く」
「リリア」
「何度も言わせるな」
「……わかった」
将軍も立ち上がる。
「毒の闇市か。帝国にも似たものがあった。私も行こう。顔が利くかもしれん」
「助かる」
こうして俺たちは、王都の地下へと潜る準備を整えた。
(第28話 終)
▼ 次回予告(第29話用の引き)
王都の旧下水道、その最奥に開かれた「毒味の闇市」。
集うは毒を愛する変人たち、そして——場を仕切る、痩せた男。
「この麻婆豆腐を作ったのは誰だ。ただの料理人が、なぜこの辛さを——」
現れたのは、白髪混じりの壮年の男。元・毒師ジルベール。
(次話:「毒味の闇市」)




