第27話「王女、庭に立つ」
卵焼きを差し入れてから、七日が過ぎた。
毎朝、俺は夜明けと共に屋台に立ち、卵焼きを焼いた。甘い卵焼き、出汁巻き、時にはネギ入り、時には焼き鮭を添えて。それをヴィオラが手配した宮中の使いが、王女の元へと運んでいく。
マルグリット侍従長からの伝言は、毎回短かった。
「王女様、本日も完食されました」
「王女様、昨晩は少しお話しになりました」
「王女様、卵焼きは甘いほうがお好きなようです」
そして七日目の朝、いつもと違う伝言が届いた。
「王女様が——几帳を開けられました」
マルグリットの声は震えていた。
「十年ぶりに、御自らの御姿を、私どもにお見せになりました」
「……そうか」
「そして、庭に出たいと。朝の庭を、散策したいとおっしゃいました」
「庭に」
「はい。つきましては——カズマ殿。王女様が、あなたに来てほしいと。庭で、あなたと話がしたいと」
リリアが茶碗を置いた。グレゴールが包丁を止める。エレナが顔を上げた。
「王女直々のご指名か」
「ああ」
「行くのか」
「当たり前だ。待ってる客がいる」
王宮の奥庭は、街の喧騒が嘘のように静かだった。
白い砂利の小道、手入れの行き届いた生垣、朝露に輝く薔薇の花々。中央には小さな池があり、水面に青い空が映っている。庭全体が、まるでこの場所だけ時間がゆっくりと流れているかのようだった。
そして、その池のほとりに——彼女は立っていた。
白い簡素なドレスをまとい、銀色に輝く髪を風に揺らせて、こちらに背を向けている。背は高くはないが、まっすぐに伸びた背筋には、長年の隠遁生活を感じさせない気品があった。
「……カズマ、殿」
声は、卵焼きを初めて食べたあの日よりずっとしっかりしていた。かすれは残っているが、その奥に意志がある。
「王女様」
「アリシアと。アリシアと呼んでください」
「それは」
「王女としてではなく——あなたの客として、話したいのです」
彼女がゆっくりと振り返る。
左の頬から顎にかけて、爛れの痕が残っていた。皮膚はひきつれ、色が変わり、痛々しい傷跡となっている。けれど——右半分の顔は、驚くほど穏やかで、澄んだ青い目がまっすぐに俺を見ていた。
「驚かせましたか」
「いいや」
「この顔を、十年間、誰にも見せられなかった。毒見役に裏切られ、毒で顔が爛れ、味覚も失い——それでも王女として生きねばならなかった。けれど、もう誰にも会いたくなかった。誰にも、この顔を見られたくなかった」
「だが、今は庭に立ってる」
「はい。あなたの卵焼きが——私をここに立たせました」
アリシアは池の水面に目を落とした。
「卵焼きは、私がまだ幼い頃、母上がよく作ってくれたものでした。母上は私が七つの時に亡くなりましたが、あの甘い味だけは、ずっと覚えていた。あなたの卵焼きを食べた時——十年ぶりに、母上の顔を思い出しました」
「それで、几帳を開けたのか」
「はい。もう一度、誰かの顔を見たいと思いました。たとえ、自分の顔がどうであっても」
俺はしばらく黙って、それから背負ってきた風呂敷包みを解いた。
「朝飯は食ったか」
「……まだです」
「なら、食え。今日は焼きおにぎりだ」
アリシアの目が、わずかに見開かれる。
「ここで?」
「庭で食う飯はうまいぞ。空が青いと、飯がうまい。当たり前のことだが、知らない奴は多い」
俺は池の縁に腰を下ろし、包みから焼きおにぎりを出した。今朝、屋台で焼いたばかりの、醤油の焦げた香ばしい握り飯が二つ。それから、小さな竹筒に入れた味噌汁。
「どうぞ、座って」
アリシアは少し迷ってから、そっと俺の隣に腰を下ろした。砂利がかすかに音を立てる。彼女はおにぎりを両手で受け取り、一口かじる。
「……しょっぱい」
「醤油だ」
「外はかりかり、中はふわり。あつくて——おいしい」
「そうだろ」
彼女はもう一口、三口と食べ進め、やがて味噌汁をすする。湯気が彼女の傷ついた頬を撫でていく。
「カズマ殿」
「なんだ」
「私は、この十年間、ただの一度も——誰かと一緒に食事をしたことがありませんでした。几帳の向こうで、一人で。味もわからぬまま、ただ栄養を詰め込むだけの日々」
「つらかったな」
「はい。でも——今、こうしてあなたと食べるおにぎりは、とてもおいしい」
「一緒に食えば、飯はうまくなる。それだけだ」
アリシアは涙を浮かべて笑った。爛れの痕が少しだけ持ち上がり、それでも彼女の笑顔は、不思議なほど優しかった。
「カズマ殿」
「なんだ」
「私は——これから、どうすればいいのでしょう」
「どうしたい」
「私は……また、誰かと食事がしたい。この庭で、あなたとだけでなく。もっと、誰かと」
「なら、屋台に来い」
「屋台に」
「ああ。東市場の、小さな屋台だ。いつでも来い。焼きおにぎりはいつもある」
「……私が、王女が、市場などに行けるでしょうか」
「王女じゃなくていい。客として来い。俺の屋台は、誰でも客だ」
アリシアは焼きおにぎりを胸に抱き、深くうなずいた。
その日の午後、王宮から一通の通達が出された。
「王女アリシア、十年ぶりに公務に復帰。今後は国民との交流を積極的に行う」
マルグリット侍従長は、通達を読み上げながら涙をぬぐっていたという。
屋台に戻ると、リリアが待ち構えていた。
「聞いたぞ。王女が公の場に出るって」
「ああ」
「あんた、王女にまで焼きおにぎり食わせて、外出させるとはな」
「食わせただけだ。決めたのは彼女だ」
「……あんたらしいな」
カウンターの隅で、トシが姿を現した。
「王女まで常連か。もう王族も神も将軍もいる。次は何が来るんだ」
「知らん。だが、来たら来たで飯を食わせるだけだ」
「それで世界が回ると思ってるのか」
「回ってるだろ、今のところ」
トシは笑って扇子を広げた。扇子はまだ折れている。
夕暮れ、屋台を閉めようとしていた時、一人の客がふらりと現れた。
白いマントをまとい、フードを深くかぶっている。だが、その歩き方と、フードの下から覗く銀色の髪と、左頬のわずかな傷跡に——俺はすぐに気づいた。
「いらっしゃい」
「……見つかりましたか」
「バレバレだ」
アリシアはフードを外し、少し照れたように笑った。
「侍従長には内緒です。どうしても——屋台で、あなたの料理を食べてみたくて」
俺は少しだけ笑って、炭火をかき立てた。
「よし。今日のまかないは、椎茸ご飯の残りと卵焼きだ。いいか」
「はい。ぜひ」
王女はカウンターの隅に座り、リリアやグレゴール、エレナ、ギリアム、将軍たちと同じ空気を吸いながら、湯気の立つ茶碗を受け取った。
(第27話 終)
▼ 次回予告(第28話用の引き)
王女の公務復帰は、宮廷内に波紋を呼んだ。
十年前に彼女を毒殺しようとした貴族派閥——その残党が、再び動き始める。
「王女が市場の屋台に通っているだと?好都合だ。あの屋台ごと——」
(次話:「宮廷の影と毒の過去」)




