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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第26話「姿なき王女と差し入れの卵焼き」

調理院の総帥エドガー・ヴァン・ローゼンが屋台を訪れてから、三日が経った。


王都の東市場にある俺の屋台は、連日、かつてないほどの賑わいを見せていた。調理院総帥が「お墨付き」を与えたという噂は瞬く間に広がり、貴族の使いから一般市民、はたまた他国からの商人までが列をなす。グレゴールは出汁巻き卵を焼き続け、エレナは野菜を刻み続け、リリアは客の整理に追われ、ギリアムと将軍は時折列に割り込もうとする不埒者を睨みで追い返していた。


「まかない、まだか」

常連になった行商人が声をかける。

「今日のまかないは、椎茸ご飯の残りと漬物だ。いいか」

「いいに決まってる!」


俺は苦笑しながら茶碗を渡す。王都の連中は、高い金を払って珍味を食うより、俺の「まかない」を目当てに来る者が増えていた。理由は簡単で、まかないには特にバフがよく乗るからだ。誰かのためにではなく、自分のために作る飯——それが、一番うまい。


そんな午後のことだった。


市場のざわめきが、ふと静まる。見れば、広場の入口に黒塗りの馬車が停まっていた。王家の紋章——黄金の獅子と交差した剣——が、扉に輝いている。御者は白い手袋をはめ、馬は磨き抜かれた黒毛だった。


馬車の扉が開き、降りてきたのは、初老の女官だった。濃紺の正装に、銀の髪を後ろで結い上げ、背筋は針のようにまっすぐ。その顔には、長年、宮廷に仕えてきた者だけが持つ、穏やかだが有無を言わせぬ威厳があった。


「カズマ殿は、どちらに」

声は静かだが、市場の隅々まで届く。

「俺だ」

「私は王女付き侍従長、マルグリットと申します。本日は、王女様の使いで参りました」


広場がざわりと揺れた。王女——この国には、長年病に伏せている王女がいるという噂は聞いたことがある。しかし、その名も顔も公にはされていない。


「王女が、俺に何の用だ」

「王女様は、あなたの料理を所望しておられます」

「料理を」

「はい。ただし——」

マルグリットは静かに、しかしはっきりと言った。

「条件がございます。王女様は、どなたともお会いになりません。姿もお見せにならず、言葉も交わされません。料理だけを——差し入れていただきたいのです」

「差し入れ」

「王宮の奥、王女様の御前へ直接、お届け願います。ただし、その間も王女様は几帳の向こうにおられ、声も発せられません。あなたはただ、料理を置き、退出する。それだけです」


リリアが眉をひそめた。

「なんだそれ。会わずに料理だけ出せって?」

「はい。王女様は長年、人と会われておりません。特に——男性とは」

「理由は」

「申し上げられません」


俺は少し考えてから、うなずいた。

「わかった。引き受けよう」

「カズマ」

リリアが口を挟む。

「あんた、何もわかってないのに」

「わからなくても、腹は減る。王女だって人間だ」

「……あんたらしいな」


マルグリットは深く一礼した。

「では、明朝、馬車を差し向けます。調理は王宮の厨房をお使いください。食材も、必要なものをお申し付けいただければ」

「いや、調理はここで済ませていく。厨房は自分の場所が一番いい」




翌朝、俺はいつもより早く屋台に立ち、仕込みを始めた。


さて、姿も見せず、声も発さない王女。長年、誰にも会わずにいるという女性に、何を作るべきか。


「卵焼きだ」

「卵焼き?」

グレゴールが顔を上げる。

「ああ。出汁巻きじゃない。砂糖を入れた、甘い卵焼きだ」

「……子供の頃に食うような味だな」

「そうだ。誰だって、子供の頃に食った卵焼きの味を覚えてる。それが甘いかしょっぱいかは人それぞれだが——甘い卵焼きは、特に“母親の味”として記憶に残る。姿も見せず、声も聞かせず——なら、味だけで“誰か”を感じてもらう」


俺は卵を割り、砂糖と塩をほんの少し、それから隠し味に味噌をひとさじ加えた。味噌を入れると、卵焼きに深みが出る。これは母がやっていたやり方だった。


フライパンに油をひき、弱火でじっくりと焼く。卵液を薄く流し、巻き、また流し、巻く——それを何度も繰り返す。出来上がった卵焼きは、表面が黄金色に輝き、中はふわりと柔らかく、包丁を入れるとほのかに湯気が立った。


それから、もう一品。白いご飯。炊きたての新潟産コシヒカリ。おかずは卵焼きだけ。味噌汁はつけない。ただの——卵焼き定食。


「できた」


俺はそれを、木の曲げわっぱに美しく詰めた。ご飯の上に卵焼きを並べ、隅にたくあんを一切れ。それだけ。飾り気はない。しかし、これこそが——子供の頃に戻れる味だ。




馬車は王宮の奥へと進む。白亜の壁、磨き抜かれた廊下、警護の騎士たち——しかし、そのすべてが静まり返り、どこか寂しげだった。王女の住まう区画に近づくほど、人の気配は少なくなり、廊下には花の絵が描かれた屏風が置かれるようになる。


「こちらでございます」

マルグリットは最奥の部屋の前で立ち止まった。扉は白く、金の装飾が施されているが、どこか長年開けられていないような重さがあった。

「王女様は、この先におられます。几帳の前に、料理を置いてください。王女様は几帳の向こうから手だけを伸ばし、料理をお取りになります。くれぐれも——几帳の中を見たり、声をかけたりなさいませんよう」


「わかった」


扉が開かれる。中は薄暗く、窓には厚い帳がかかっている。部屋の中央には、大きな白絹の几帳が立てられ、その向こうはまったく見えない。ただ、几帳の前に、小さな座卓が置かれていた。


俺はその座卓に、曲げわっぱを静かに置いた。卵焼きの湯気が、ほのかに立ち上る。飯の甘い香りが、部屋の中に広がる。


「卵焼き定食だ。甘い卵焼きと、白いご飯。それだけだ」

俺は静かに言った。

「姿も見せず、声も聞かせず——でも、飯は誰かのために作るものだ。この卵焼きは、俺の母が作ってくれたものだ。あんたのためでもあるが、それだけじゃない。誰かの“誰か”を思い出すために、食ってほしい」


几帳の向こうから、かすかに衣擦れの音がした。


それから——白い手が、几帳の隙間からそっと伸びてきた。痩せ細った、しかし気品のある手だった。その手が曲げわっぱを取り、几帳の向こうへと消える。


箸の音。卵焼きが、そっと口に運ばれる。


次の瞬間——几帳の向こうで、息を呑む気配がした。


「……あまい」

声は、かすれていた。マルグリットが驚愕の表情で几帳を見る。

「王女様……!?」

「……あまい。卵焼きが、あまい。これは——これは、私が子供の頃、母上と食べた——」


几帳の向こうで、すすり泣く声が聞こえ始めた。マルグリットが慌てて几帳に近づく。

「王女様、お声を——」

「いいの、マルグリット」


王女の声は震えていたが、それでも——確かに、誰かに話しかけることを望んでいる声だった。

「カズマ、とおっしゃったか」

「ああ」

「私は——私は長年、誰にも会えなかった。顔を見せられなかった。声も聞かせられなかった。なぜなら——」

「なぜ」

「私の顔は——毒で爛れているからだ」


マルグリットがうつむく。

「十年前、王女様は何者かに毒を盛られました。命は取り留めましたが、顔の左半分に酷い爛れが残り、味覚も失われました。それ以来、王女様は誰にもお会いにならず、声もお聞かせにならなかった。なのに——今」


「味がしたからだ」

俺は言った。

「味がすれば、声も出る。誰かに伝えたくなる。それが、食うことだ」

「……カズマ」

王女の声は、少しだけしっかりしていた。

「私は、あなたに会いたい。でも——この顔を見せるのは、まだ怖い」

「無理に見せる必要はない。でも、飯は毎日食える。それだけは、忘れるな」

「……毎日」

「明日も卵焼きを作る。明後日は、焼き魚かもしれない。それを食って、少しずつでいい。誰かと食うことを、思い出せ」


几帳の向こうで、王女が泣いている。その涙の音だけが、静かな部屋に響いていた。




王宮を辞去する道すがら、マルグリットが深々と頭を下げた。

「カズマ殿。何とお礼を申し上げればよいか」

「礼はいらない。ただ——」

「ただ」

「王女の顔の爛れは、毒見役では防げなかったのか」

「王女様は、その毒見役すら信用できず、自ら料理を口にする前に、毒味役を遠ざけられました。毒味役の中に、裏切り者がいたのです」

「……そうか」

俺はエレナの顔を思い浮かべた。彼女もまた、毒味役として舌を殺された。王女は、毒見を信用できずに、自分の舌を失った。毒は人の体を壊すだけじゃない。人と人との間を引き裂く。


「だが、王女は今日、初めて声を出した。次は、几帳を開けるかもしれない」

「はい。カズマ殿の卵焼きが、王女様の心を——」

「違う。卵焼きはただのきっかけだ。心を開いたのは、王女自身だ」


マルグリットは涙を浮かべて、もう一度だけ頭を下げた。




屋台に戻ると、リリアが待ち構えていた。

「どうだった」

「卵焼きを食ったら、声が出た」

「……それだけか」

「それだけだ。でも、それだけで十分だ」

「あんた、王女にまで料理作って、次はどうするんだ」

「明日も明後日も作る。それが屋台だ」


カウンターの隅で、トシが姿を現した。いつの間にか森から戻ってきている。

「カズマ、ちょっといいか」

「なんだ」

「ガルムの味覚教育、順調だよ。シロガネと兄貴が協力して、今じゃ焼き肉の味がわかるようになった」

「それはよかった」

「で、な——ひとつ、気になることがあってな」

トシの顔が少し曇った。

「最近、神域の空気がまたざわついてる。今度は——“戦神”だ」

「戦神」

「ああ。兄貴と俺が和解したことで、神々の勢力図が変わった。それをよく思わない連中がいる。戦神はな——食を“戦いの道具”と見なしている。つまり」

「俺を、兵器として欲しがってるのか」

「たぶんな」


俺は包丁を研ぎながら言った。

「わかった。でも、まずは明日の卵焼きだ」

「……お前、戦神が来ても同じことする気か」

「腹が減ってるならな」


トシはあきれた顔で扇子を広げた。扇子はまだ折れている。


(第26話 終)




▼ 次回予告(第27話用の引き)


王女への差し入れが七日続いた朝、王宮から緊急の報せが届く。

「王女様が——几帳を開け、庭に出ました。十年ぶりです」

駆けつけたカズマを待っていたのは、白い肌に爛れの痕を残しながらも、微笑む一人の女性だった。

(次話:「王女、庭に立つ」)

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