第25話「調理院の包丁」
王都の東市場は、朝から活気に満ちていた。
石畳の両側に所狭しと並ぶ露店。魚をさばく威勢のいい声、香辛料を量る真鍮の秤の音、焼きたてのパンを籠に並べる娘の笑顔——王都の胃袋と呼ばれるこの場所は、あらゆる食材と、あらゆる空腹が集まる場所だった。
俺が新しい屋台を構えたのは、市場の東端、広場に面した小さな区画だった。ヴィオラが食糧庁の権限で手配してくれた場所で、日当たりもよく、水場も近い。カウンターは前と同じ檜の一枚板、竈はレンガを積んで手作りした。看板には、リリアが書いてくれた文字で「屋台 まかない処」とある。屋号はまだない。ただの「まかない処」だ。
「ここが新店舗か」
グレゴールが竈の火加減を見ながら言った。彼はもうすっかり屋台の料理長格で、特に出汁巻き卵は俺より上手くなっている。
「ああ。王都の連中は舌が肥えてる。競争も激しい」
「だが、我々にはバフがある」
「バフに頼りすぎるな。基本の味で勝負しろ」
リリアが新しい弓を肩にかけて、カウンターの隅に座っている。王都で買ったばかりの、弦が白く輝く逸品だ。
「しかし、よく場所が取れたな。東市場は出店の倍率がすごいって聞いたぞ」
「ヴィオラのおかげだ。食糧庁の顔が利いたらしい」
「あの女官、意外と権力あるんだな」
「辺境伯令嬢だからな。本人はあまり言いたがらないが」
エレナが無言で野菜を刻んでいる。毒味役だった頃の正確な手つきは、調理の下ごしらえに完璧に向いていた。彼女はまだあまり喋らないが、時折、椎茸ご飯を炊いては、一人で味わって涙を浮かべている。味覚が戻った喜びを、少しずつ噛みしめているのだろう。
将軍とギリアムは、市場の見回りに出かけていた。王都には帝国の残党やら西方の密偵やらが潜んでいるらしく、二人はそれを嗅ぎ分けられる。屋台の警備は任せてある。
「よし、開店するぞ」
看板を表に向け、暖簾をかける。メニューは壁の板にこう書いた。
・おにぎり(梅・鮭・おかか) —— 200ゴールド
・味噌汁(豆腐とわかめ) —— 150ゴールド
・焼きおにぎり(醤油) —— 250ゴールド
・本日の定食(椎茸ご飯、味噌汁、漬物) —— 500ゴールド
・まかない(店主の気分次第) —— 時価
「相変わらずの値段設定だな」
リリアが呆れた顔で言った。
「高いと思うか」
「いや、王都ならむしろ安い。ぼったくれ」
「じゃあ、明日は値上げするか」
「やめておけ、常連が泣く」
最初の客が来るまで、そう時間はかからなかった。市場で働く行商人や、買い物帰りの主婦、見習いの兵士——王都の人々は、噂を聞きつけてすでに興味津々だったらしい。
「ここが例のバフ飯の!」
「おにぎりって、どんな料理だ?」
「あの将軍を改心させたってほんとですか!?」
俺は黙々とおにぎりを握り、味噌汁をよそい、客に手渡す。そのたびにポップアップが視界に並ぶ。
【HP+10、スタミナ+15(90分)】【士気上昇(小)】【味覚感度+2(永続)】
王都の連中は、街の冒険者より体力はないが、味覚感度のバフがよく効く。食通が多いこの街では、それがリピーターを生むはずだ。
昼下がり、客足が一段落した頃——それは現れた。
市場のざわめきが、さあっと引いた。
広場の入口から、一団の男たちが歩いてくる。全員が白い調理服に身を包み、胸には鍋と包丁が交差した紋章——王室直属調理院の印が金色に輝いている。その先頭を歩くのは、一際背の高い老人だった。
年の頃は六十を過ぎている。銀髪をきっちりと後ろに撫でつけ、口髭は手入れが行き届いている。白い調理服には一点の染みもなく、襟には院長を示す金鎖がかかっていた。そして、その右手には——一振りの包丁が握られている。
鞘には納められていない。むき出しの刃が、朝日に冷たく煌めいていた。
「——王室直属調理院、筆頭調理官。エドガー・ヴァン・ローゼンと申す」
声は低く、よく通る。
「カズマ殿。あなたの料理を、見せていただきたい」
広場中が静まり返った。エドガー・ヴァン・ローゼン——その名は俺も聞いたことがある。王国で最も歴史ある調理院の総帥で、代々の王族の食事を作ってきた男だ。料理人であると同時に、王国の食のすべてを統括する権力者でもある。
「見せていただきたい、とは」
「言葉通りです。私はあなたの料理を試食し、それが国家資源に値するかどうかを判定する」
「そんな話は、昨日終わったはずだ。食糧庁の長官が保留にした」
「食糧庁は食糧行政を司る機関。我が調理院は——国家の味覚そのものを司る機関です。次元が違う」
エドガーは微かな笑みを浮かべて、続けた。
「アウグスト長官は、あなたの椎茸ご飯に絆されたそうだ。だが、私は違う。私は五十年間、王家の舌を守ってきた。その舌が、あなたの料理をどう判定するか」
彼は手にした包丁を掲げた。刃に光が集まり、周囲の空気が震える。ただの包丁ではない——何かの魔力が込められている。
「これは“味覚包丁”。調理院に代々伝わる魔道具で、切った食材の味を完璧に分析し、増幅し、時には——無効化する。この包丁であなたの料理を検め、真に国家の資源たる価値があるか、判じさせてもらう」
「無効化」
「包丁には“味覚破棄”の権能も備わっている。毒にも等しい料理ならば、味そのものを消し去る」
リリアが立ち上がり、グレゴールが俺の隣に並んだ。エレナの手が包丁を握り直す。
「つまり、俺の料理が気に入らなければ、味を消すと」
「国家の味覚を乱すと判断すれば。これは権力の濫用ではない。調理院の責務です」
「……わかった」
俺はカウンターの前に立った。
「なら、あなたに料理を振る舞おう。ただし——」
「ただし」
「私が作る料理の味を消せるかどうか、試してみるがいい」
エドガーの目が細められた。
「面白い。では、一品だけ——あなたの最も“国家を揺るがす”料理を見せていただこう」
俺は厨房に立った。リリアが小声で言う。
「あんた、勝算あるのか」
「ある。相手は料理人だ」
「だから」
「料理人なら、食えばわかる」
調理院の連中は、ずらりと屋台の前に立ち、俺の手元を監視している。エドガーは包丁を手にしたまま、微動だにしない。
俺はまず、米を炊き始めた。新潟産コシヒカリ。これはいつもと同じ。違うのは——今日は、もう一つの鍋も火にかけることだ。
その鍋に投入したのは、異世界デリバリーで取り寄せた「煮干し」と「昆布」。それから、無味砂漠の岩塩をほんの少し。味噌は——この三年間、俺が継ぎ足しながら熟成させてきた自家製味噌だ。甕から出すと、濃厚な香りが市場の空気に広がった。
「味噌、か」
グレゴールが呟く。
「ああ。三年ものだ」
「三年前はまだ、お前は屋台を始めたばかりだろう」
「そうだ。最初の仕込みから、ずっと継ぎ足してきた。これだけは、異世界デリバリーでも買えない。俺の人生の味だ」
味噌を溶き、豆腐とわかめを入れる。それだけの、ただの味噌汁。しかし——この三年間、俺がこの世界で生き抜いた証が、この一杯には詰まっている。
そしてもう一品。俺は、小さな包みから梅干しをひとつ取り出す。これは紀州の南高梅ではなく、この世界の梅の実を、俺が自分で漬けたものだ。まだ熟成は浅いが、それでも——俺の手で作った、俺の梅干しだ。
米が炊き上がり、味噌汁が湯気を立て、梅干しが白磁の皿にのせられる。
「できた」
俺はトレイを手に、エドガーの前に差し出した。
「定食だ。白いご飯、味噌汁、梅干し。以上」
「……以上?」
「そうだ。これが俺の“最も国家を揺るがす料理”だ」
調理院の連中がざわついた。
「ふざけているのか」
「こんな粗末なものが——」
エドガーは手を上げて、部下たちを黙らせた。
「……粗末、か」
彼はトレイを見下ろし、しばらく沈黙した。
「この味噌汁の香り——三年ものの自家製味噌だな」
「わかるか」
「わかる。そしてこの梅干し——まだ若い。今年漬けたばかりだろう」
「そうだ」
「ご飯は、異世界の米だな。しかし水は——王都の井戸水だ」
「その通りだ」
エドガーはゆっくりと、味覚包丁を鞘に収めた。鞘などなかったはずなのに、包丁は彼の袖の中に消える。
「私は五十年間、王家の料理を作ってきた。最高の食材、最高の技術、最高の調度——そのすべてを注ぎ込んだ。しかし——」
彼は箸を取った。その手は、驚くほど穏やかだった。
「こんなにも、誰かの“人生”が詰まった料理を、私は作ったことがない」
彼は白いご飯を一口、口に運ぶ。味噌汁をすする。梅干しをかじる。
そして——目を閉じた。
「……これは、国家を揺るがす」
「なに」
「この味噌汁は、ただの味噌汁ではない。お前がこの三年間、この世界で生きてきた証だ。ご飯は、異世界とこの世界をつなぐ橋だ。梅干しは——この世界の土で、お前が自分の手で育てようとしている、新しい味だ。これは、王国の味を変える。ひいては、大陸の味を変える」
「それは、悪いことか」
「悪いことではない。しかし——」
彼は目を開けた。その目は、さっきまでの冷たい権力者のものではない。ただの、一人の料理人の目だった。
「私には、これを作れない。五十年間、私は誰かのために料理を作ってきた。だが、“自分の味”を持ったことがなかった」
「カズマ殿」
エドガーは深く頭を下げた。
「調理院の判定を、ここに撤回する。あなたの料理は、国家資源ではない。そんなものに収まる器ではない」
「なら」
「あなたの料理は——この国の“宝”です。管理するのではなく、守るべき宝。私は、そのために動く」
調理院の連中が呆然としている中、エドガーはトレイを静かにカウンターに戻した。
「梅干しは、もう少し熟成させたほうがいい」
「……あんた、わかってるな」
「五十年の勘だ」
俺は少しだけ笑った。
「また食いに来い。今度は卵焼きもつける」
「おお、それは楽しみだ」
エドガー・ヴァン・ローゼンは、背筋を伸ばして市場を去っていった。その後ろ姿は、権力者のそれではなく——一人の年を取った料理人のものだった。
夕方、屋台を片付けながら、ヴィオラが現れた。
「聞いたぞ。調理院の総帥が、君の料理に降参したそうだな」
「降参じゃない。ただ、飯を食っただけだ」
「それで国家の味覚が変わるのか」
「変わらんよ。ただ——」
「ただ」
「あの人も、誰かに飯を作ってほしかったんだろう。王族のためじゃなく、自分のために」
ヴィオラは少しだけ笑った。
「次は、本物の王族が来るかもしれないな」
「王族」
「ああ。王都にはな——」
彼女は言葉を切って、市場の灯りを見つめた。
「長年、病に伏せている“王女”がいる。味覚を失ったまま、誰にも会わずに。調理院の総帥が動いたなら、次は——その話になるだろう」
空を見上げると、王都の夜空に、ぽつりと星が光っていた。
(第25話 終)
▼ 次回予告(第26話用の引き)
調理院の総帥が認めたことで、カズマの名はついに王宮の最奥にまで届いた。
「王女が、あなたの料理を所望です」
現れたのは、王女付きの侍従長。しかし、その依頼は奇妙だった。
「ただし条件が——王女様は、誰とも会わず、姿も見せず、言葉も交わさない。料理だけを、差し入れろ」
(次話:「姿なき王女と差し入れの卵焼き」)




