第24話「毒味役と失われた味覚」
王都の中心、白亜の城壁に囲まれた行政街区。その一角に、食糧庁の庁舎はあった。
建物は古いが堅牢で、壁には王国の紋章と食糧庁の麦穂の印が掲げられている。周囲には穀物倉庫や検品所が立ち並び、早朝から職員たちが忙しく行き交っていた。王都全体の食を管理するこの場所は、いわば王国の胃袋だ。
「ここだ。気を引き締めろ」
ヴィオラが重い扉を押し開けながら言った。彼女の顔は、街の入口で見せた時よりずっと硬い。蜂蜜色の髪を束ね直し、軍服の襟を正している。
「で、相手は食糧庁長官と西方大使だな」
「ああ。長官はアウグスト・ヴァルデン。食糧行政の叩き上げで、数字と規則で動く男だ。悪人じゃないが——面白みもない」
「面白みはいらない。飯を食うかどうかだ」
「……そればっかりだな」
「それだけだ」
庁舎の中は、ひんやりとした石造りの廊下が続いていた。壁には歴代長官の肖像画が並び、天井からは鉄の燭台が吊り下げられている。すれ違う職員たちは、ヴィオラを見ると慌てて脇に避け、俺の顔を見ると何かを囁き合った。もう噂は広がっているらしい。
リリアが小声で言う。
「なんか、見られてるな」
「珍獣扱いだ」
「珍獣で合ってる」
「お前な」
グレゴールが静かに呟いた。
「この建物には、かつて聖餐庁の出先機関があった。今はどうなっているか」
「それを確かめるのも、俺たちの仕事だ」
廊下の突き当たり、重厚な樫の扉の前に立つ。ヴィオラがノックをすると、中から低い声が返った。
「入れ」
会議室は広く、高い窓から朝の光が差し込んでいた。中央には長い楕円形のテーブル。その奥に、二人の男が座っている。
一人は、白髪交じりの壮年の男。角張った顎、細い銀縁眼鏡、几帳面に整えられた執務服——アウグスト・ヴァルデン食糧庁長官だ。彼の前には、羊皮紙の束と計算尺が整然と並べられている。全体から「数字の人」という印象を受ける。
もう一人は、西方諸国連合の大使。黒檀のような肌に、金糸の刺繍が施された深紅のローブをまとい、指にはめられた無数の指輪が光っている。年の頃は四十代半ば、髪は短く縮れ、目だけが異様に鋭かった。そして——彼の背後には、もう一人、立っている者がいる。
女だった。年の頃は二十代後半。漆黒の衣服に身を包み、顔は無表情。目は開いているのに、何も映していない。まるで、世界のすべてを毒と見なしているかのような、凍りついた視線だった。
「よく来たな、カズマ殿」
アウグスト長官が口を開いた。
「私は食糧庁長官、アウグスト・ヴァルデン。こちらは西方諸国連合全権大使、バルドルフ卿——そして」
「毒味役だ」
バルドルフ大使が、笑みを浮かべて言った。笑っているが、目は笑っていない。
「我が国が誇る絶対毒味役、エレナ。いかなる料理も、彼女の舌にかかれば毒の有無を一瞬で看破できる。まあ、その代償として——味覚は完全に失っているがな」
「味覚を失ってる」
俺はエレナの目を見た。彼女は微動だにしない。まるで人形だった。
「毒味をしすぎた結果か」
「そうだ。二十年間、あらゆる毒を味わい続けた。王族の食事すべてに彼女の舌が通る。西方では、彼女の舌こそが最も信頼される安全基準だ」
「それを、なぜここに連れてきた」
「決まっている。カズマ殿、君の料理を“検査”するためだ」
ヴィオラが一歩前に出た。
「待て、バルドルフ卿。カズマの料理に毒など入っていない。それは王国が保証する」
「保証。結構。だが、国際資源として管理する以上、我が国の基準で検品するのは当然の権利だ。違うか、アウグスト長官」
「……国際法上、その主張に瑕疵はない」
アウグストは眼鏡を押し上げながら言った。
「カズマ殿。君の料理は、もはや一個人の商売ではない。帝国との戦争を終結させ、飢餓神獣を鎮め、西方の村々の味覚を回復させた——これは、一国家では管理しきれない“資源”だ。ゆえに、国際管理の枠組みが必要である。これが、食糧庁の見解だ」
「国際管理」
「具体的には、君の屋台で提供する料理のレシピをすべて登録し、提供先を制限し、価格を統制する。許可なく他国へ料理を提供することも禁じられる」
「それはつまり」
俺は言った。
「俺の屋台は、俺のものじゃなくなるってことか」
「……国家的資源として、適切に管理されるということだ」
会議室が静まった。リリアが弓を握り直し、ギリアムが大剣の柄に手をかける。将軍は無表情で腕を組んだまま、ただじっと大使を見据えていた。
「わかった」
俺は静かに言った。
「なら、その“検査”とやらを受けよう。毒味役——エレナといったか。彼女に、俺の料理を食わせる」
「カズマ」
ヴィオラが声を潜める。
「正気か。あの女、味覚がないんだぞ。何を食わせても無駄だ」
「味覚がなくても、腹は減る」
「……またそれか」
俺は背負っていた包みを解き、会議室の隅にある暖炉に火を入れた。小さな鉄鍋を取り出し、水を張る。
「ここで料理をする。構わないな」
アウグストは眉をひそめたが、バルドルフ大使は面白そうに手を振った。
「許可しよう。毒味役が監視する。不正はできんぞ」
俺は鍋に火をかけながら、考えていた。味覚を失った女——毒を喰らい続けて、舌が死んだ女。彼女に何を食わせるべきか。刺激の強いものでは、かえって舌を閉ざす。甘いものでは、毒の苦みに慣れた舌に届かない。彼女に必要なのは——「安全」の味だ。
俺は米を研ぎ、土鍋で炊き始めた。といっても、普通の白米ではない。無味砂漠から持ち帰った岩塩をひとつまみ——これはミネラルが豊富で、ほのかに甘い。それから、干し椎茸を水で戻し、その戻し汁だけを加える。椎茸のうま味は、舌が死んでいても感じ取れるほど深い。
米が炊き上がる香りが、会議室に広がった。
そして最後に——俺は小さな包みから、梅干しをひとつ取り出す。紀州の完熟南高梅。塩だけで漬けた、しょっぱくて酸っぱいだけの、あの梅干しだ。だが、これは俺の舌のために取っておいた、特別に熟成させたものだった。
炊き上がった椎茸ご飯を茶碗によそい、真ん中に梅干しをのせる。それだけだ。飾りもなければ、ソースもない。
「できた。食え」
俺は茶碗を、エレナの前に差し出した。
エレナは無表情のまま、茶碗を見下ろした。それから、箸を取る。その手つきは機械的で、まるで毒の有無を確認するだけの作業のように見えた。
彼女は一口、ご飯を口に運ぶ。
——次の瞬間、彼女の手が止まった。
「……なに、これ」
声は、かすれていた。まるで何年も声を出していなかったかのように。
「ご飯だ。椎茸のうま味と、梅干しの酸っぱさ。それだけ」
「……味が、する」
「ああ」
「なんで。私は、二十年間、何も感じなかった。毒だけが舌を焼いて、それ以外は——砂だった。なのに、これは」
「椎茸のうま味はな、舌じゃなくて、喉で感じるんだ。味蕾が死んでても、うま味だけは残る。知ってたか」
エレナはもう一口、ご飯を口に運ぶ。その目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「……あたたかい」
「毒味では、温かい飯を食わなかったんだろ。毒を検出するには、冷たいままのほうがいいから」
「……はい」
「飯は温かいほうがうまい。当たり前のことを、お前は忘れてただけだ」
エレナは三口、四口と食べ進め、やがて梅干しをかじった。その酸っぱさに、彼女の顔が初めて歪む。眉をひそめ、口をへの字に曲げ——それが、人間らしい表情だった。
「……すっぱい」
「そうだろ」
「しょっぱくて、すっぱくて——おいしい」
「それが、味だ」
エレナは茶碗を握りしめ、肩を震わせて泣き始めた。二十年ぶりの味が、彼女の凍りついた心を溶かしていく。
バルドルフ大使が立ち上がった。
「な、なにをしている、エレナ!毒見を——」
「毒はありません」
エレナは涙をぬぐいながら、はっきりと言った。
「この料理に毒はありません。それ以上に——これは、私が二十年間、初めて食べた“食事”です」
「なに……」
「バルドルフ様。私はこれより、毒味役を辞任します」
「なにを言っている!お前は我が国が——」
「私を毒味役にしたのは、あなたです。私の舌を殺したのも、あなたです。でも——この人は、私の舌を生き返らせた。どうか、この人の料理を、管理などしないでください。この人の料理は——管理されるためのものじゃない。ただ、誰かのためにあるんです」
バルドルフ大使は絶句し、アウグスト長官は眼鏡を外して額を揉んだ。
「……こりゃあ、参ったな」
「長官」ヴィオラが口を開く。「国際管理の話は、これで終わりにできませんか。ご覧の通りです。カズマの料理は、管理できるものじゃない。誰かの空腹を満たすだけのものです」
「……規則としては、困るのだがな」
「規則より、現実を見てください。毒味役が辞任し、大使が黙り込み、長官がため息をついている——これが現実です」
アウグストはしばらく考え込んでいたが、やがて深いため息をついた。
「わかった。国際管理の件は、いったん保留とする。ただし——」
「ただし」
「王都で屋台を開くなら、私にも食わせろ。椎茸ご飯、まだあるか」
「……長官」
「私だって人間だ。腹は減る」
俺は少しだけ笑って、もう一杯、椎茸ご飯をよそった。
「梅干しは一個ずつだぞ」
「それでいい」
バルドルフ大使はしばらく憮然としていたが、やがて観念したように椅子に座り直した。
「……私にも、一つもらえるか」
「毒味はいらないのか」
「毒味役が辞めたのでな」
「わかった。特別だ」
結局、会議室の全員が椎茸ご飯を食う羽目になり、国際管理の話は立ち消えになった。
夕方、庁舎を出ると、ヴィオラが並んで歩いてきた。
「長官が、君の料理を気に入った」
「椎茸ご飯ひとつで落ちるとは、安い長官だな」
「もともと悪い人じゃないんだ。ただ、数字しか信じられなくなってただけだ。でも、君の飯は数字を超える」
「数字で食ってるわけじゃないからな」
「ああ」
ヴィオラはしばらく黙って歩いてから、ふと言った。
「それと——ひとつ、気になることがある」
「なんだ」
「西方大使があんなにあっさり引いたのが、少し引っかかる。奴らはもっと粘るはずだ。何か、別の手を考えているかもしれない」
「例えば」
「王都には、食糧庁より権力を持つ機関がある。王宮、そして——“王室直属調理院”だ」
「王室直属調理院」
「王族の食事を管理する、王国最古の調理機関だ。聖餐庁が教会なら、調理院は国家そのものだ。奴らが動けば——」
「俺の屋台を潰しに来るか」
「潰すか、取り込むか。いずれにせよ、気をつけろ」
俺は空を見上げた。王都の空は広く、どこか冷たい。
「わかった。だが、その前に——屋台を開く場所を探さないとな」
「あんたなあ……」
エレナが、俺たちの後ろを無言でついてきていることに、俺は気づいていた。彼女は毒味役を辞め、行く場所がないのだろう。
「エレナ」
「……はい」
「腹は減ってるか」
「……減っています」
「なら、俺の屋台を手伝え。毒味役の経験は、調理に役立つ」
「料理を、私が」
「ああ。人に毒を盛るなとは言わない。だが——これからは、人に飯を食わせろ」
エレナは深くうなずいた。その目に、もう凍りついた無表情はなかった。
(第24話 終)
▼ 次回予告(第25話用の引き)
王都の東市場に、カズマは新たな屋台を開いた。だが、その初日に現れたのは——
「王室直属調理院、筆頭調理官。エドガー・ヴァン・ローゼンと申す」
白い調理服に身を包んだ、気高い老人。その手には、一振りの包丁。
「カズマ殿。あなたの味覚——国家のために、我が調理院で管理させていただく」
(次話:「調理院の包丁」)




