第23話「王都召喚と食糧庁の陰謀」
無味砂漠を抜け、カジカの村に着いたのは、それから三日後の夕暮れだった。
村の入口に立った瞬間、俺は空気の違いを感じ取った。乾いた無機質な匂いが消え、代わりに——焚き火の煙と、煮炊きの匂いと、花の香りが混ざった、生きた空気が流れている。そして何より、広場の教会の黒い尖塔が、色を変えていた。漆黒だった石壁が灰色に褪せ、舌の紋章はひび割れて崩れ落ちている。
「味覚が戻ってる」
アルデが呟いた。彼女は自分の口元に手を当て、何かを確かめるように何度も唾を飲み込んでいる。
「空気の味がする……砂の味じゃない。本当の、土と草の味が」
村人たちは俺たちの姿を見つけると、家々から次々に飛び出してきた。先頭にいたのは、あの宿屋の老婆だった。彼女は手に、俺が置いていった醤油の瓶を大事そうに抱えている。
「カズマ様!お帰りなさい!」
「ただいま。味は戻ったか」
「はい!はい!昨晩、突然——まるで目が見えるようになるみたいに、味が戻りました。芋の煮付けが、しょっぱくて甘くて——わし、泣きました。村中が泣きました」
老爺が駆け寄ってきて、俺の手を握りしめる。その目はもう落ち窪んでいない。
「おにぎりを作りました。醤油を塗って、焼きました。うまかった。本当にうまかったんです」
「よかった」
子供たちが広場で焚き火を囲み、芋を焼いている。その煙の匂いが、夕暮れの空に溶けていく。かつて黒い教会がそびえていた場所には、今は小さな祠が一つ建てられていた。祀られているのは舌ではなく——白い米を盛った茶碗だった。
「……俺の飯が祀られてる」
「この村の新しい守り神です」老婆が笑った。「“白米様”って呼んでます」
リリアが吹き出す。
「あんた、神様になったな」
「やめてくれ」
グレゴールが真顔で茶碗を検分している。
「神像としては粗末だが、信仰の形としては正しい。白米は命の根源だ」
「グレゴール、やめろ」
トシとグーラは、村の外れからその光景を眺めていた。二人の神は、今は人間の目には見えないように気配を消している。
「兄貴、どう思う」
「……我が奪った味覚が、こうして戻り、人々が喜んでいる。我は——何をしていたのだろうな」
「いいんだよ、もう。これから取り返せば」
「取り返す」
「ああ。フェンリルの巣穴で、ガルムに味覚教育だ。忙しいぞ」
グーラは何も言わず、ただ微笑んだ。
その夜、村はちょっとした祭りになった。
広場にテーブルが並べられ、村人たちがそれぞれの家から料理を持ち寄る。芋の煮付け、干し肉のスープ、焼きたてのパン、そして——焼きおにぎり。醤油の香ばしい匂いが、広場中に満ちていた。
俺も竈を借りて、簡単な料理を作った。持参した米を炊き、村で採れたばかりの山菜をさっと茹でて、醤油と無味砂漠の塩で味付けする。それだけの、素朴な一皿だ。
「うまい!」
「山菜にこんな味があったなんて」
「塩がちがう。この塩、なんだか懐かしい味がする」
無味砂漠の塩は、味覚が戻った今、微量のミネラルが複雑なうま味を生み出している。かつて修行場だった砂漠は、今や貴重な塩の産地になるかもしれない。
「カズマ様」
アルデが俺の隣に立った。彼女は手に、自分で握ったおにぎりを持っている。形はいびつで、塩加減もまだ覚束ない。
「私も——作ってみました」
「見せろ」
差し出されたおにぎりを受け取り、一口かじる。塩が少し多いが、握り加減は悪くない。
「うまいよ」
「……本当ですか」
「ああ。ちゃんとお前の味がする」
アルデはおにぎりを胸に抱き、涙をこぼした。これでまた一人、料理人が生まれた。
祭りが佳境を迎えた頃、村の入口に見慣れない馬の蹄の音が響いた。
現れたのは、王都の紋章をつけた伝令官だった。汗まみれの馬から飛び降り、広場を見渡し、俺の姿を認めるとまっすぐに駆け寄ってくる。
「カズマ殿!探しました!街にもう戻られたと聞いて——」
「なんだ、改まって」
「これをお読みください」
差し出されたのは、封蝋で厳重に閉じられた手紙だった。封蝋には、王国食糧庁の印——麦穂と剣が交差した紋章——が押されている。
封を切って中を開く。几帳面な筆跡で、こう書かれていた。
「カズマ殿。久方ぶりの書状、お許し願いたい。王都の情勢は急変し、もはや貴殿の屋台を“市井の一飯屋”として放置できぬ状況にある。西方諸国連合が、貴殿の料理を“国家食糧資源”に認定し、国際的な保護対象とする旨を宣言した。これにより、貴殿の身柄と屋台は、事実上、王国の管理下に置かれることとなる。ついては至急、王都へ来られたし。詳細は面談の上で。署名——ヴィオラ・グランツ」
「……国際的な保護対象」
「はい。西方諸国、北方帝国、東方自由都市同盟——すべてがカズマ殿の料理を“戦略資源”と見なしています。このままでは、屋台ひとつを巡って国際紛争になりかねません」
「ばかばかしい。ただの飯屋だぞ」
「もはや、ただの飯屋ではありません」
ギリアムが手紙を覗き込んで眉をひそめた。
「国家食糧資源——それはつまり、お前の料理が国際法で保護される一方、自由を制限される可能性があるという意味だ」
「制限」
「ああ。誰にでも自由に料理を振る舞えなくなる。許可制になり、値段も統制され、何より——お前自身が、国の管理下に置かれる」
俺は手紙を見つめた。ヴィオラ・グランツ——かつて俺の屋台を「危うい」と言い、それでも庇護を与えてくれた女官だ。彼女がこんな手紙を送るということは、本当に切迫した状況なのだろう。
「わかった。王都に行く」
「カズマ」
リリアが口を挟む。
「あんた、それ罠かもしれないぞ」
「かもしれない。だが、ヴィオラは悪い奴じゃない。それに——」
「それに」
「王都に行けば、新しい客が待ってる。それだけだ」
将軍がうなずく。
「王都には私も顔が利く。同行しよう」
「将軍、お前は帝国に帰らなくていいのか」
「帰っても、もはや私の居場所はない。それに——まだ粥の作り方を完璧に習得していない」
「……そうか」
ギリアムも大剣を背負い直す。
「俺も行く。王都には軍務庁の知り合いがいる。情報を集められる」
「助かる」
エグゼビアとアルデは顔を見合わせた。
「私たちは——」
「お前たちは、ここに残れ」
「え」
「この村は、まだ味覚を取り戻したばかりだ。教会の残党がいるかもしれない。お前たちが守ってやれ。それに——」
「それに」
「この村の連中に、料理を教えてやってくれ。焼きおにぎりだけじゃなくて、もっと色んなものを」
エグゼビアは深くうなずいた。
「……わかりました。必ず」
「頼んだぞ」
翌朝、俺たちは王都へ向けて村を発った。
見送りに来た村人たちに、俺は一つの瓶を手渡した。無味砂漠の岩塩を詰めた瓶だ。
「これは、お前たちの塩だ。この村の周りで採れる。これからは、これで料理を作れ」
「カズマ様……ありがとうございます」
「礼はいらない。その代わり——いつか、俺の屋台に食いに来い。焼きおにぎり、ごちそうする」
老婆は涙を浮かべてうなずいた。
トシとグーラは、ひと足先に森へ向かっている。シロガネの巣穴に戻り、ガルムの味覚教育を始めるためだ。
「カズマ、王都で何かあったら呼べよ」
トシが言った。
「神様は便利だろ」
「ああ。頼りにしてる」
「兄貴も連れてくし」
「我はまだ本調子ではないが——いざとなれば、味覚の力で助太刀しよう」グーラが静かに言った。
「ありがたい」
二人の神が森へ消えるのを見届けてから、俺たちは王都への街道を歩き始めた。グレゴールが隣に並ぶ。
「王都か。聖餐庁の本拠地がある」
「まだ敵がいるか」
「どうだろうな。聖餐卿だった私がいなくなっても、組織は存続している。だが——聖餐庁は一枚岩ではない。味方もいる」
「なら、大丈夫だ」
リリアが前を歩きながら言った。
「あんた、ほんとに王都で何する気」
「決まってる。屋台を開く」
「は」
「王都には屋台がない。なら、開くだけだ。食糧庁が何を言おうと、俺の屋台は俺のものだ」
「……あんたらしいな」
街道を進むうち、遠くに王都の城壁が見えてきた。白亜の壁と、無数の尖塔——大陸で最も栄えた都の威容が、朝日に輝いている。
そして、その城門の前に立っていたのは、見覚えのある蜂蜜色の髪と濃紺の軍服。ヴィオラ・グランツが、腕を組んで俺たちを待っていた。
「遅かったな、カズマ」
「あんたの手紙は相変わらず堅いな」
「内容は堅い方がいい。で、こっちに来て早々で悪いが——」
ヴィオラの顔が、珍しく曇った。
「食糧庁長官が、君を待っている。それから——」
「それから」
「西方諸国連合の大使も、同席する。奴ら、君の“味覚”を国際管理しようとしている」
広場の空気が、かすかに震えた。
「国際管理」
「そうだ。君の料理は、もはや一個人のものではない——と、奴らは言っている」
俺は背負った包みを確かめる。中には、米と、醤油と、梅干し。そして——無味砂漠の岩塩。
「いいだろう。その長官とやらに、まず飯を食わせろ」
(第23話 終)
▼ 次回予告(第24話用の引き)
食糧庁の庁舎にて、カズマの前に現れたのは、食糧庁長官と、西方諸国連合の大使——そして、大使が連れてきた“毒味役”だった。
「これは我が国が誇る絶対毒味役。いかなる料理も毒を検出できる」
しかし、その目は死んでいる。毒見をしすぎて、味覚を完全に失った女——
(次話:「毒味役と失われた味覚」)




