第22話「偽りの味覚神と最後の調理場」
味無き宮殿の大扉をくぐると、空気が一変した。
外は無味の砂漠だったのに、宮殿の内部は、まるで「味」そのものが腐敗したような異臭に満ちている。甘い、苦い、酸っぱい、しょっぱい——すべての味覚が混ざり合い、どろどろに溶け、鼻の奥を突き刺す。俺は思わず口元を覆った。
「これは……」
「兄貴の“味覚”だ。封印の中で、制御を失ってる。何百年も、味を求め続けて、何も味わえずに——こうなった」
トシの顔色は青ざめ、それでも彼は足を止めなかった。着物の袖で口を押さえながら、迷いなく宮殿の奥へと進んでいく。
宮殿の内部は、かつての壮麗さの名残をとどめていた。壁には色あせた食材の絵が描かれ、天井には調理器具を象った装飾が並ぶ。しかし、そのすべてが砂に埋もれ、ひび割れ、苔むしている。廊下の両脇には、かつて調理場だったと思われる小部屋がいくつも並び、中には朽ちた竈や砕けた瓶が散乱していた。
「ここで、俺と兄貴は料理を作ってた」
トシがぽつりと言う。
「毎日、新しいレシピを考えて、人間に教えて。味の喜びを広げるのが、俺たちの仕事だった」
「いい時代だったんだな」
「ああ。一番いい時代だった」
廊下の突き当たりに、大きな両開きの扉があった。他の扉よりずっと装飾が多く、舌とフォークとナイフが、美しい金色で刻まれている。
「調理場だ。宮殿の中心——そして兄貴の封印がある場所」
ギリアムが大剣を構え、将軍が杖を握り直す。リリアが矢をつがえ、グレゴールが聖印を胸に当てた。エグゼビアとアルデは、互いに目を見合わせてうなずく。
「開けるぞ」
俺が扉を押すと、それは重い音を立てて内側に開いた。
そこは、巨大な調理場だった。
天井は高く、かつてはガラス張りだったと思われる穹窿から、砂漠の灰色の光が差し込んでいる。壁一面に並ぶ竈、中央に据えられた巨大な石の調理台、天井から吊り下げられた無数の鍋とフライパン。そして——そのすべてが、黒い鎖で雁字搦めに縛られていた。
いや、調理台も竈も鍋も、凍りついた黒い鎖のように見えるのは、グーラの“味覚”そのものだ。飢えと渇望が凝固し、この調理場全体を覆い尽くしている。
そして、調理場の奥にある玉座に、それはいた。
玉座に縛められた、骨と皮だけの神。
痩せ細った巨体は、飢餓将軍よりもさらに酷い。皮膚は干からびて骨に張りつき、胸のあたりはひび割れて、中からかすかな金色の光が漏れている——最後に残った味覚の欠片だろうか。顔は骸骨のように落ち窪み、それでもその両目だけは、ぎらぎらと燃えていた。偽りの味覚神、堕ちた食神グーラ。
「……来たか」
声は、地の底から響くようだった。
「我が弟よ。そして——我が舌を宿す人間よ」
トシが一歩、前に出た。
「兄貴。久しぶりだ」
「久しぶり、か。お前にとってはそうだろうな。しかし、我にとっては——ここでの一瞬一瞬が、永遠の飢えだ」
「兄貴」
「知っておろう。味を求め、何も味わえず、ただ飢えるだけの永遠を。我はこの数百年、一秒たりとも空腹を満たせなかった。なあトシ、お前は——お前だけは、なぜ我を助けに来なかった」
トシの顔が歪んだ。
「来たかった。でも、来れなかった。兄貴を庇えなかった俺に、その資格があると思えなかった」
「資格」
「兄貴が堕ちた時、俺は神々の会議で何も言えなかった。兄貴を止めることも、擁護することもできず、ただ黙ってた。その俺が、今さら会いに来るなんて——」
「トシ」
グーラの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「お前は、何も変わっていないな」
「え」
「昔からそうだ。優しすぎて、臆病で、自分の気持ちを言えない。だが——」
グーラの目が、俺に向けられる。
「その人間は違うようだな」
俺は一歩前に出た。
「グーラ。あんたを助けに来た」
「助ける。笑えぬ冗談だ。我を助けるには、その舌を置いてゆかねばならぬ。神の味覚を我に返せ。さすれば我は復活し、この飢えから解放される」
「断る。俺の舌は、俺のものだ」
「ならば——奪うのみ」
グーラが鎖を軋ませながら立ち上がった。調理場全体が震え、黒い鎖が蛇のように動き始める。それが俺に向かって殺到し——。
ギリアムと将軍が同時に飛び出した。大剣と杖が鎖を弾き、リリアの矢がグーラの肩を射抜く。だが、グーラはひるまない。鎖はさらに伸び、将軍の腕に巻きつき、ギリアムの足を絡め取った。
「小賢しい。人間ごときが神に抗うな」
「待て」
俺は声を張り上げた。
「グーラ。あんた、料理人だったんだろ」
「……なに」
「この調理場は、あんたが作ったんだ。ここで、誰かのために料理をしていた。違うか」
「……昔の話だ」
「昔の話でいい。あんたは、誰かのために味を作ったことがある。それだけで十分だ」
「それがなんだというのだ」
「もう一度、料理を作れとは言わない。ただ——俺の飯を、食ってくれ」
グーラの動きが止まった。
「……我に、飯を食えと」
「あんたは飢えている。なら、食わせる。俺は屋台シェフだ。それだけの男だ」
俺は調理場の中央、巨大な石の調理台に立った。黒い鎖がそれを覆っているが、構わず手を伸ばす。鎖が俺の手を焼こうとしたが——トシが扇子を広げ、鎖を払った。
「兄貴。こいつに、作らせてやってくれ。こいつの飯は——」
「うまいぞ、兄貴。本物だ」
グーラは黙って俺を見つめていたが、やがて鎖を引っ込めた。
「……よかろう。ひと口だけ、食ってやる。それで我を満足させられなければ——その舌は頂く」
「いいだろう」
俺は調理台に向かった。さて、何を作るべきか。この数百年飢え続けた神に、何を食わせれば、彼の飢えは癒えるのか。
答えは、すでにわかっていた。
俺は持参した米を土鍋で炊き始めた。無味砂漠の水で、無味砂漠の岩塩をひとつまみだけ。味付けはそれだけ。おかずもない。ただの——白いご飯。
そう。ただの白いご飯だ。だが、これこそが、すべての味の原点だ。
かつて俺自身が、毒と裏切りの日々の中で失い、そして母の味噌汁と共に取り戻した、ただの白いご飯。美食教団のエグゼビアが涙を流した、あの白いご飯。味覚喰いのアルデが自分の味を取り戻した、あの白いご飯。
土鍋の蓋を開けると、白い湯気と共に、素朴な米の香りが立ち上った。それは、無味砂漠の空気を押しのけて、調理場中に広がっていく。
俺は炊きたてのご飯を、小さな茶碗によそい、グーラの前に差し出した。
「食え」
グーラは、骨と皮だけの手で茶碗を受け取った。その手は震えている。
「……ただの白米だな」
「そうだ」
「味付けは塩だけか」
「そうだ」
「ふざけているのか。我は数百年、味を求め続けた。そんな我に、こんな——」
「食え。理屈は後だ」
グーラはしばらく茶碗を見つめていたが、やがて、おずおずと一口を口に運んだ。
——次の瞬間、彼の全身が、硬直した。
「……あまい」
「米は甘い。噛めば噛むほどな」
「……あたたかい。なんだ、これは。塩だけ、米だけ、なのに——なぜだ。なぜこんなにも、味がする」
「それはな、お前が初めて味わった“味”だからだ」
「初めてだと」
「あんたは昔、人間の女を救おうとした。味覚を失った女に、究極の味を作ろうとした。でも、それは間違ってたんだ。彼女が本当に欲しかったのは、ドラゴンの心臓でも妖精の涙でもない。ただ——誰かと一緒に、白いご飯を食うことだった」
グーラの目が、大きく見開かれた。
「……彼女が、欲しかったもの」
「誰かと食う飯は、うまい。ただそれだけのことが、味の本質だ。あんたはそれを忘れて、味だけを追いかけた。だから、堕ちた」
グーラはもう一口、ご飯を口に運ぶ。その骨ばった頬を、一筋の涙が伝った。
「……彼女は、最後に言った。『あなたと一緒に、ただのパンを食べたかった』と。我は——その言葉の意味を、ずっと理解できなかった。そうか、これが。これが——」
「彼女が食いたかったものだ」
「……ああ」
グーラは茶碗を抱え、声を押し殺して泣き始めた。神の涙が、乾いた調理場の床に落ち、金色の染みを作る。その染みが広がるたびに、黒い鎖が少しずつ溶けていった。
「兄貴」
トシが歩み寄り、グーラの肩に手を置いた。
「俺も、ずっと来れなくて、ごめん」
「……トシ」
「兄貴の気持ちに、俺は気づいてやれなかった。兄貴が苦しんでる時に、何もできなかった」
「違う。お前は——お前だけは、ずっと我を信じていた。神々が皆、我を見捨てた中で、お前だけは——」
「兄貴を恨んだことなんて、一度もないよ。ただ、会いたかった」
グーラは茶碗を置き、トシの手を握り返した。二人の神の手が重なり、かすかな金色の光が調理場を満たす。
「……弟よ」
「なあに、兄貴」
「我は、お前の連れてきたこの人間に、感謝せねばならぬようだ」
グーラは俺に向き直り、深く頭を下げた。
「カズマとやら。礼を言う。我は——救われた」
「救ってない。飯を食わせただけだ」
「それが、我にとっては救いだ」
「なら、礼はいらない。ただ、約束してくれ」
「なんだ」
「奪った味覚を、全部返してくれ。西方の村々、お前の教団に奪われた者たち——みんな、お前と同じように飢えている」
「……わかった。約束しよう」
グーラは立ち上がり、両手を広げた。彼の体の中から、金色の光が溢れ出し、無数の小さな粒となって調理場の外へと飛び去っていく。味覚の欠片だ。それが砂漠を越え、村々に戻っていくのが、なんとなく感じられた。
無味砂漠の空気が、変わった。風が、かすかに塩の匂いを運んでいる。
「兄貴、これからどうするんだ」
「……わからぬ。神として復活するには、まだ力が足りぬ」
「なら、しばらく俺のところに来いよ」
「トシ」
「俺、今、フェンリルの巣穴に居候しててさ。シロガネって銀色の狼と、クロって子狼と、ガルムって飢餓神獣がいるんだ。で、そこにガルムの味覚教育を頼めるやつが欲しかったんだよ。兄貴、味覚神だろ。ぴったりじゃないか」
「……飢餓神獣に、味覚教育だと」
「ああ。アイツ、まだ味をよくわかってないから」
「……面白いな」
グーラは数百年ぶりに——笑った。
「よかろう。そのフェンリルの巣穴とやらに、世話になるとするか」
トシが、嬉しそうに扇子を広げた。扇子はまだ折れている。
「じゃあ、決まりだ。帰ろう、カズマ」
「ああ」
「帰り道は、あの村にも寄ろう。味覚が戻ったか、確かめたい」
「そうだな」
「それから——屋台に戻るぞ。もう何日も休んでる。客が飢えてる」
俺は少しだけ笑った。
「屋台を開ける。常連が待ってる」
グレゴールが無言でうなずき、ギリアムが大剣を背負い直し、将軍が杖をつきながら立ち上がる。リリアは弓をしまい、エグゼビアとアルデは顔を見合わせて微笑み合った。
「カズマ殿」
グーラが呼びかけた。
「我はかつて、味のためなら人を殺してもよいと思った。だが——お前の白いご飯は、我に“誰かと食う味”を思い出させた。これは、トシの味覚だけでは作れぬものだ。お前自身が——元・毒使いだからこそ、生み出せた味だ」
「かもな」
「だからこそ、伝えておく。お前の味覚は——神の舌は、まだ成長の途中だ。いずれ、真の味覚神を超える力を宿すだろう。その時、また神々が動く」
「その時はその時だ。俺は屋台を開けるだけだ」
グーラは深くうなずき、トシと共に宮殿を出て行く。その後ろ姿は、骸骨のように痩せ細っていたが、それでも——確かに、生者の歩みだった。
宮殿を出ると、無味砂漠はもはや無味ではなかった。
砂の上には、かすかに塩の結晶が輝き、風は遠くの海の匂いを運んでいる。味覚が、この土地に戻りつつあった。
「……終わったな」
リリアが言う。
「ああ。でも、グーラが言ってたな。また神々が動くって」
「その時はその時だろ」
「そうだ」
俺たちは、来た道を引き返し始めた。行き先は、味覚を取り戻した村、そして——俺たちの屋台がある街。
背中の包みには、まだ米が残っている。醤油もある。梅干しもある。帰り道の野営で、何を作るか——それだけを考えながら、俺は砂漠を歩いた。
(第22話 終)
▼ 次回予告(第23話用の引き)
無味砂漠から戻ったカズマたちを待っていたのは、歓喜の村人たちと——届いた一通の手紙だった。
「西方諸国連合が、カズマの屋台を“国家食糧資源”に認定。至急、王都へ来られたし」
差出人は、かつてカズマと契約を交わした女官、ヴィオラ・グランツ。
(次話:「王都召喚と食糧庁の陰謀」)




