第17話「美食教団、来訪」
飢餓神獣ガルムが森で眠りについてから、一週間が過ぎた。
シロガネの巣穴では、銀色のフェンリルと漆黒の飢餓獣が奇妙な共存を始めている。ガルムはまだ起きないが、眠りながら時折、口をもごもごと動かし、シロガネが焼いてやった野牛の肉を夢の中で味わっているらしい。トシはと言えば、すっかり洞窟生活に慣れ、シロガネと交代でガルムに「味の講義」をしている。神と伝説の獣が共同で、概念の獣にグルメ教育を施す——誰が想像しただろうか。
街は平静を取り戻しつつあった。帝国本隊は国境まで後退し、将軍ヴォルフガングは毎朝、屋台で粥を食う。今日で十一杯目だ。その顔には肉がつき始め、目の落ち窪みもずいぶん浅くなった。
「今日は味噌汁に豆腐を入れた。食え」
「……もらおう」
将軍は茶碗を受け取り、静かにすする。その所作には、かつての「食を憎む男」の面影はもうない。ギリアムとは相変わらず距離があるが、昨日、将軍が「麦飯を一つ」と自分から注文した時、ギリアムが無言で自分の曲げわっぱを差し出した。それだけで、十分だった。
リリアが焼きおにぎりをかじりながら、俺に言った。
「あんた、最近、常連が増えすぎじゃないか。元帝国将軍、元聖餐卿、預言者、神——そのうち王様でも来るんじゃないの」
「来たら来たで、飯を食わせるだけだ」
その言葉を聞きつけて、カウンターの隅からトシの声がした。
「王様より面倒なのが来るかもよ」
「どういう意味だ」
「西方諸国。あっちには“美食教団”ってのがあってな」
将軍の手が止まった。
「……美食教団」
「知ってるのか」
「ああ。奴らは“味”のためなら人を殺し、国を滅ぼすとさえ言われる異端集団だ。美食を信仰し、究極の味を追い求める。そのためには、どんな食材も手に入れる。たとえそれが——」
「それが」
「人間の、魂であっても」
広場の空気が、かすかに震えた。グレゴールが鍋を置き、リリアが眉をひそめ、ギリアムが大剣に手を伸ばす。
「美食教団は、かつて聖餐庁も手を焼いた相手だ。奴らの“味覚審査”は、我々の比ではない。料理人を拉致し、食材を奪い、時には料理そのものを崇拝の対象にする。奴らにとって“究極の一皿”は、この世のどんな宝より価値がある」
「……それが、なんで俺を」
「決まっている。お前の料理は、神の味覚を宿し、飢餓将軍を改心させ、飢餓神獣を鎮めた。噂はとっくに西方まで届いている。美食教団がお前を放っておくはずがない」
トシがため息をついた。
「あいつら、昔、俺のひさごを盗もうとしたことがあるんだよ。神の調味料を狙ってさ。まあ、返り討ちにしたけど」
「お前、戦えないんじゃなかったのか」
「戦わないだけで、自衛はするんだよ。神だから」
その時だった。
広場の入口から、かぐわしい香りが流れてきた。それはバラと没薬と、焼きたてのパンと、熟した果実が混ざったような、圧倒的な芳香だった。嗅いだだけで脳がとろけそうになる。しかし——その香りの奥に、かすかな腐臭が混じっているのを、俺の嗅覚は見逃さなかった。
「……来たか」
広場に入ってきたのは、五人の一団だった。
先頭は、純白のローブをまとった長身の男。顔は仮面で隠されている——銀の仮面に刻まれているのは、舌とフォークとナイフが交差した紋章。美食教団の印だ。その周りを、同じく白い衣服の男女が四人。全員が痩せ細っているが、目だけは爛々と輝き、まるで獲物を探す獣のようだった。
「ここが、噂の“屋台”か」
仮面の男が声を発した。その声は甘く、耳にまとわりつく。
「私は美食教団、味覚司祭長エグゼビア。カズマとやら——君に会いに来た」
「なんの用だ」
「単刀直入に言おう。君の“味覚”を、我が教団に献上してもらいたい」
リリアが弓を握る。ギリアムが立ち上がり、将軍が静かに箸を置いた。
「献上ってのは」
「そのままの意味だ。君の舌、君のスキル、君のレシピのすべてを、教団に捧げるのだ。拒めば——」
エグゼビアは仮面の下で笑ったようだった。
「この街ごと、“味わって”しまう」
「味わう」
「言葉通りだ。我々の“美食術”は、物質を味覚に変換する術。街ひとつをスープにすることなど造作もない」
空気が凍る。その男の言葉は誇張ではない——そう直感した。こいつらは本気だ。
俺は団扇を置き、ゆっくりと男に向き直った。
「あんた、腹は減ってるか」
「……なに」
「腹が減ってるかと聞いてる。減ってないなら、話にならん」
エグゼビアはしばらく沈黙し、それから声を立てて笑った。
「面白い男だ。私は腹など減らしてはいない。美食を追求する者は、空腹と無縁だ。我々は常に満たされている」
「違うな」
「なにが違う」
「お前たちは、空腹を知らないんじゃない。空腹を忘れてるだけだ。味だけを追いかけて、腹が減ってることにすら気づかない——それは、もっとも重い飢えだ」
俺は炭火に手をかざした。
「よし。献上のかわりに、一つだけ条件をのめ」
「条件とは」
「今から、俺が一食、作る。お前たち全員、それを食え。食ってから、もう一度考えろ」
「……我々を、試すのか」
「違う。客として扱うだけだ」
エグゼビアは仮面の奥で、何かを測るように俺を見つめていたが、やがてうなずいた。
「いいだろう。その“一食”が、どれほどのものか——見せてもらう」
俺は厨房に立った。さて、彼らに何を食わせるべきか。美食の極致を追い求める者たちに、どんな一皿を出せば、彼らは自分たちの飢えに気づくのだろう。
答えは、すでにわかっていた。
俺は土鍋を火にかけ、研いだ白米を仕掛ける。新潟産コシヒカリ、水は清流のもの。それだけ。味付けはしない。具も入れない。ただの——白いご飯。
やがて、湯気と共に、素朴な米の香りが立ち上った。それは、美食の香りとは対極の、何の変哲もない、しかし紛れもなく“命”の匂いだった。
俺は炊きたてのご飯を小さな茶碗によそい、五人の前に差し出した。箸もつけず、ただ茶碗だけ。美しくもなんともない、白いご飯。
「食え」
美食教団の五人は、茶碗を見つめて固まった。
「……なんだこれは」
「ご飯だ」
「ふざけているのか!こんなものが料理だと!?味もない、香りもない、見た目も貧しい——」
「食え」
エグゼビアが最初に手を伸ばした。白い手袋を外し、素手でひとつまみのご飯を口に運ぶ。
——次の瞬間、彼の動きが止まった。
「……あまい」
「米は甘い。噛めば噛むほどな」
「……なんでだ。私は世界で最も高級な食材を知っている。ドラゴンの脳髄、フェニックスの卵、人魚の涙で炊いたリゾット——そのどれよりも、これは」
「うまいか」
「……うまい。わけがわからないほど、うまい」
エグゼビアはもう一口、もう一口とご飯を口に運び、気がつけば茶碗は空だった。彼は呆然と茶碗を見つめ、それから——かすかに震える声で言った。
「私は……空腹だ」
「ああ」
「こんなに腹が減っていることに、なぜ気づかなかった。私はただ、味だけを追いかけて、肝心の“食う”ことを忘れていた」
「それが、お前たちの飢えだ」
残る四人も、次々にご飯を口に運び、そして——泣き始めた。あの傲慢な美食家たちが、白いご飯ひとつで、子供のように泣いている。
エグゼビアは仮面を外した。現れたのは、痩せこけた若い男の顔だった。頬は落ち、目の下には深い隈がある。
「……私は、教団に入る前、貧しい農民だった。白い米を食うのが夢だった。だが、美食に取り憑かれて、その夢を忘れていた」
「思い出したな」
「ああ。思い出した。だから——献上は、やめる」
「いいのか」
「代わりに、私もここで食わせてほしい。この、白いご飯を」
俺は少しだけ笑った。
「いいぞ。ただし、条件がある」
「なんだ」
「毎日食いに来ること。それと、お前たちの“美食術”は封印しろ。味は奪うものじゃない。作って、分け与えるものだ」
エグゼビアは深くうなずき、四人と共にカウンターに並んで座った。その顔は、さっきまでの仮面の男とは別人のように穏やかだった。
グレゴールが新しい茶碗を差し出し、リリアが呆れた顔でため息をつく。
「また常連が増えた」
「美食教団の味覚司祭長まで……次は本当に王様が来るぞ」
「来たら来たで、飯を食わせるだけだ」
カウンターの隅で、トシが楽しそうに扇子を揺らしていた。
(第17話 終)
▼ 次回予告(第18話用の引き)
美食教団の改心から三日。だが、西方からはさらなる影が近づいていた。
エグゼビアがもたらした警告——
「気をつけろ、カズマ。教団を動かしているのは、さらに上位の存在——“味覚神”だ」
「味覚神……トシの親戚か?」
「違う。奴は“偽りの味覚”を司る、堕ちた神だ」
(次話:「味覚神の影」)




