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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第16話「飢餓神獣、目覚める」

将軍が屋台に通い始めて三日。毎朝、夜明けと共に現れては、カウンターの端に座り、黙って粟の粥を食う。今日で四杯目だ。顔色はまだ悪いが、目の奥のぎらつきが少し和らいでいるのを、俺は見逃さなかった。


「味噌汁、おかわりいるか」

「……もらおう」


グレゴールが無言でよそった味噌汁を差し出すと、将軍は両手で茶碗を包み、ゆっくりとすする。その仕草にはもう、かつての「食を拒絶する男」の影はない。


ギリアムは相変わらず距離を置いて、屋台の隅で麦飯を食っている。元上官と元部下の間には、まだ埋まらない溝があった。だが、同じ屋台で同じ時間に飯を食っている——それだけで、少しずつ何かが溶けていくのを感じる。


「将軍。ガルムのことを教えてくれ」

「……ガルム」

「あんたが制御していた飢餓神獣だ。あれは今、どこにいる」

「帝国本隊の後方、封印陣の中だ。俺の飢餓のオーラを鍵にして、大人しくさせている」

「もし、その鍵が効かなくなったら」

「暴れる。手がつけられなくなる。ガルムは生き物ではない。飢餓という概念が形を取ったものだ。殺せない。ただ——飢えを満たすことでしか、鎮められない」


俺はしばらく考え込んだ。概念が形を取ったもの。ならば、あれは「腹を空かせた客」の究極系みたいなものかもしれない。だとしたら——。


その時だった。


北の空から、長く、低い遠吠えが響いてきた。それはシロガネの声だったが、普段の悠然としたものではない。切迫した、警告の遠吠えだ。街中にその音が響き渡り、広場の人々が一斉に北を向く。


続いて、空気が凍りついた。嗅いだことのない異臭——腐敗した穀物と、焦げた肉と、何より「何もない」匂いが混ざったような、飢餓そのものの匂いが森から流れてくる。


クロが飛び出し、北に向かって唸り声を上げた。その毛が逆立ち、金色の目が怒りと恐怖で揺れている。


「——来たか」

将軍が立ち上がった。その顔色が再び青ざめている。

「鍵が、効かなくなった。俺の飢えが薄れたせいだ」

「お前のせいじゃない。俺の粥のせいだな」

「……皮肉か」

「事実だ」


そこへ、一陣の風と共に、見慣れた着物姿が広場に飛び込んできた。


トシだ。息を切らせ、扇子は折れ、ひさごはべこべこに凹んでいる。

「カズマ!来た!ガルムが——思ってたよりずっとデカい!」

「落ち着け。どんな具合だ」

「どんな具合って、まず見た目がやばい。骨と皮と牙でできてる。目が七つある。口が三つある。んで、とにかく——腹を空かせてる。何でも食う。木も岩も魔力も食う。今、シロガネが食い止めてるけど、長くはもたない!」

「シロガネは」

「互角!でも、相手は無限に飢えるのに、シロガネには限界がある。腹が満ちるからな!」

「腹が満ちる」

俺はその言葉を反芻した。ガルムは無限に飢える——つまり、絶対に満腹にならない。

「トシ。あいつは、味を感じるのか」

「へ?」

「味だ。ガルムはただ何でも食うだけか。それとも、味を感じているのか」

「……知らん。でも、概念の獣なら、もしかしたら“味”を知らないかもしれない。飢餓ってのは、味わうことの対極にある概念だから」


俺は立ち上がった。やるべきことが見えた気がした。


「わかった。行くぞ」

「どこに」

「決まってる。ガルムのところだ」

「は!?正気か!?あいつ、なんでも食うんだぞ!」

「だからだ。なんでも食うなら、俺の飯も食うはずだ」

「食うだろうけど、食ったからって——」

「味を知らなければ、教えればいい」


俺は手早く仕込みを始めた。持っていくのは、炊きたての白米と、味噌と、梅干し。それから——神穀マナムギを一握り。トシがひさごから取り出した、あの輝く穀物だ。


「マナムギを使うのか」

「ああ。概念の獣に効くなら、これしかない」

「効くかどうかはわからんぞ」

「試す価値はある」


将軍が一歩前に出た。

「俺も行く」

「いいのか」

「ガルムを解き放った責任は俺にある。それに——お前の粥の借りを返したい」

「借りなんてない。お前はただ、飯を食いに来てるだけだ」

「それでも」


ギリアムも大剣を握った。

「俺もだ。将軍と二人、戦場で死ぬなら本望だ」

「死ぬな。飯を食いに来い」

リリアが弓を担ぎ、グレゴールが聖餐庁時代の古い聖印を胸に下げた。クロはもう駆け出している。


「よし。総員、ピクニックだ」

「ピクニックって……」

「相手は腹を空かせた獣だ。飯を持って行く。それでいい」


森の奥、フェンリルの巣穴の手前で、戦いはすでに始まっていた。


シロガネの銀色の巨体が、漆黒の影と絡み合っている。影——いや、ガルムの体は、飢えそのものを固めたような異形だった。骨と皮だけで構成された巨躯はフェンリルより二回り大きく、背骨に沿って七つの黄色い目が並んでいる。そして三つに裂けた口からは、無数の牙と、呑み込んだすべてを無に変える暗黒の唾液が滴っていた。


周囲の木々はすでに消えている。食われたのだ。地面も岩も、ガルムの口にかかれば虚空に溶ける。


シロガネがガルムの喉に噛みつき、その反動で地面に叩きつけられる。銀色の毛が血に染まり、それでも彼女は離れない。


「シロガネ!」

俺は叫んだ。


「——来たか、カズマ」

シロガネはガルムを蹴り飛ばし、距離を取って着地した。その足は震えている。限界が近い。


「飯を持ってきた」

「……飯だと」

「ああ。あいつに食わせる」

「正気か」

「お前と同じことを言うな」


ガルムがこちらを向いた。七つの目が一斉に俺を捉え、三つの口が飢餓の唸りを漏らす。その音は、聞くだけで胃が縮むような、原始的な空腹の恐怖に満ちている。


俺は背負ってきた包みを開いた。


中身は、握り飯だ。白米と、マナムギを混ぜて炊いた特製の握り飯。梅干し入り、味噌塗り、焼き鮭入り。そして——中心には、トシから預かった小さな勾玉のかけらが埋め込まれている。あれはトシの“味覚”の欠片だ。


「概念の獣なら、概念を食わせる」


俺は握り飯をひとつ、ガルムめがけて放り投げた。


ガルムは反射的に、それを食らった。三つの口のひとつが握り飯を呑み込み——次の瞬間、その巨体がびたりと止まった。


「……効いた?」

トシが小声で言う。


ガルムの七つの目が、一斉にまたたいた。そして——そのうちの一つが、かすかに輝きを変えた。黄色だった目が、ほんの少しだけ柔らかい黄金色に変わり始めている。


「味を、感じてる」

「概念の獣が、味を知ろうとしてる——」


ガルムが二つ目の口を開き、俺に向かって唸った。だがその唸りは、先ほどとは違う。飢えの苦痛ではなく——もっと多くを欲しがる、純粋な食欲の声だった。


「よし、食え。まだある」


俺は二つ目、三つ目と握り飯を投げた。ガルムは次々にそれを呑み込み、そのたびに目が黄金に変わっていく。七つの目のうち、四つが変わり、五つが変わり——最後の二つがまだ黄色いままだが、それでも獣の動きは明らかに鈍くなっていた。


「カズマ!こいつ、まだ食い足りないみたいだぞ!」

「だろうな。なんせ無限の飢えだ。だが——」

「だが?」

「味を覚えた獣は、ただの“空腹”じゃなくなる。うまいものを選ぶようになる」


俺は最後の握り飯——神穀マナムギだけを使った特製の握り飯を取り出した。中には、梅干しが丸ごと一つ入っている。しょっぱくて、酸っぱくて、それでいてほのかに甘い。味覚のすべてが詰まった、俺の最高傑作だ。


「これで最後だ。食え」


ガルムめがけて、握り飯を投げる。


獣の三つの口が、同時にそれに食らいついた。そして——。


ガルムの全身が、激しく震えた。七つすべての目が黄金に変わり、骨と皮だけだった体の表面に、かすかな温もりが宿る。それはまるで、生まれて初めて「満腹」を知ったかのような反応だった。


暗黒の唾液が止まり、虚空に溶けていた地面に、小さな草が一本、生え始める。


ガルムはゆっくりと腹這いになり、七つの目を閉じた。飢餓の咆哮は、今や穏やかな寝息に変わっている。


「……寝た」

トシが呆然と言った。

「飢餓の概念が、飯を食って寝たぞ」

「そうだ」

「信じられん。神の俺が言うのもなんだけど、これは奇跡だ」

「奇跡じゃない。料理だ」


シロガネが傷ついた足を引きずりながら近づいてきた。その金色の目が、ガルムを見下ろしている。

「……飢餓を喰らうのが我々の役目だったが、飢餓に食わせて鎮めるとはな」

「あんたのおかげだ。時間を稼いでくれた」

「礼には及ばん。それより——約束の焼き肉を忘れるな」

「ああ、今度、特上カルビを届ける」


将軍が、ガルムの寝姿を見つめながら言った。

「こいつもまた、飢えていただけか」

「そうだ。腹が減って、味を知らなくて、ただ苦しかっただけだ」

「……私は、こいつを兵器として使っていた」

「過去の話だ。今は、飯を食わせる側に回れ」


将軍は黙ってうなずいた。その目に、初めて穏やかな光が宿ったように見えた。


トシが折れた扇子を直しながら言う。

「で、カズマ。こいつ、これからどうするんだ。まさか屋台で飼うのか」

「飼うわけないだろ。ここでシロガネと一緒に暮らしてもらう」

「フェンリルと飢餓神獣の同居!?地獄絵図かよ」

「ガルムはもう飢えていない。それに、味を覚えた獣は、ただの食いしん坊だ」


シロガネが尾を揺らした。

「いいだろう。こいつには、私が“味”を教えていく。焼き肉、焼き鳥、おにぎり——順に教え込めば、立派なグルメになる」

「……それでいいのか、伝説の魔獣」

「飢餓は、もはや敵ではない。ならば、味方にするまでだ」


俺は空を見上げた。森の切れ間から、星がひとつ、ふたつと顔を出している。長い一日だった。


「帰るぞ。屋台を開ける。将軍、明日の粥は少し遅れるかもしれん」

「……かまわん。待っている」

「ギリアム、お前もだ」

「ああ」

「リリア、グレゴール——みんな、腹は減ったか」

「減った」

「私もだ」

「決まりだな」


俺たちは森を抜け、街へと戻る。背後では、ガルムの寝息と、シロガネがそれを舐める音が聞こえていた。


(第16話 終)


▼ 次回予告(第17話用の引き)


飢餓の脅威は去った。だが、将軍がもたらした新たな情報が、カズマの屋台を再び騒がせる。

「西方諸国が動き始めた。今度は“美食”がお前を狙っている」

美食——それは、味のためなら人を殺し、国を滅ぼすとさえ言われる、異端の美食教団。

(次話:「美食教団、来訪」)

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