第15話「飢餓将軍、屋台に立つ」
炊き出し四日目の夕暮れ、広場の空気が変わった。
それはまるで、世界から一切の匂いが消えたかのような静けさだった。煮立つ味噌汁の湯気も、焼けるおにぎりの香ばしさも、なぜかその場に押し留められ、広がらない。俺は顔を上げ、団扇を置いた。
広場の入口に、ひとりの男が立っている。
痩せ細った体をボロボロの外套で包み、手には杖とも槍ともつかない長棒。顔は落ち窪み、頬骨が浮き、唇は乾ききっている。だが——背筋だけは、鋼のように真っ直ぐだった。そしてその両目。ぎらつく飢えの奥に、燃えさかる意思がある。
飢餓将軍ヴォルフガング。十年間、何も食わずに生きている男。
「……将軍」
ギリアムが凍りついた声で呟いた。その手が無意識に大剣の柄を握る。広場にいた冒険者たちも、炊き出しに並んでいた市民たちも、一斉に動きを止めた。
ヴォルフガングはゆっくりと、だが迷いなく屋台へと歩いてくる。一歩ごとに、周囲の温度が下がっていくようだった。飢えのオーラが、現実の空気を侵食している。
「ここが、例の屋台か」
声は、想像よりずっと静かだった。低く、かすれているが、よく通る。
「カズマとやら。話を聞こう」
俺は手を拭き、カウンターの前に立った。リリアが背後で弓を握り直す気配がする。グレゴールも鍋から手を離し、じっと将軍を見据えている。
「話なら、座ってからにしろ。腹は減ってるか」
「……減っているとも。この十年、ずっとな」
「じゃあ、まず食え」
ヴォルフガングはしばらく俺の目を見つめ、それからカウンターの椅子に腰を下ろした。間近で見ると、彼の痩せ方は尋常ではない。肉という肉が削げ落ち、皮膚が骨に直接張りついている。それでも、その体からは異様なまでの生命力が放たれていた。飢えそのものを燃料にしている。
「俺が食わないことは、ギリアムから聞いているはずだ」
「聞いてる」
「それでも食わせるか」
「当たり前だ。ここは飯屋だ。腹を空かせて来た客には、誰彼かまわず食わせる」
将軍はかすかに口元を歪めた。笑ったのかもしれない。十年ぶりに。
「いいだろう。ただし——俺が食うのは“一食”だけだ。その一食で俺を満足させられなければ、この街は明日には陥落する」
広場中がざわついた。ギリアムが声を上げる。
「将軍、それは——」
「黙れ、ギリアム。お前は裏切った。裏切った者の言葉を聞く耳はない」
「裏切ったんじゃない。満たされたんだ」
俺は遮った。
「お前の元部下は、俺の飯を食って、初めて腹が満たされた。それだけの話だ」
「……満たされることは弱さだ」
「そうか。なら、お前も試してみろ。その“一食”で」
俺は厨房に立った。さて、何を作る。十年間何も食っていない男に、何を食わせる。高級食材か、奇跡の一皿か。違う——そういうものは、かえってこの男の心を閉ざす。必要なのは、彼の“飢え”の根源に触れる味だ。
前世で、母が作ってくれた味噌汁。シオンにそぼろ丼を、ギリアムに麦飯を。俺はこれまで、自分の記憶の中の味で、人を癒してきた。だからこそ、今度は——この男の記憶の中の味を、引き出さなければならない。
「将軍。ひとつだけ聞く」
「なんだ」
「お前は、子供の頃、何を食って育った」
ヴォルフガングの目が、初めて揺らいだ。ほんの一瞬、だが確かに。
「……なぜそんなことを聞く」
「料理人は、客のことを知らなければ作れない。俺のスキルはな、客の“飢え”が深いほど、その根源に響く一皿を教えてくれるんだ」
実際には、そんなスキルはない。だが——俺の勘と、これまで培ってきた経験が、確かに何かを掴みかけていた。
将軍は長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「……粥だ」
「粥」
「母が作ってくれた、粟の粥だ。貧しい村だった。米などなかった。粟と水だけで、塩すら満足になかった。だが——あの粥だけが、俺の空腹を満たしてくれた」
「その粥を、もう一度食いたいと思ったことはあるか」
「……ない。母は飢饉で死んだ。粥では飢えから救えなかった。だから俺は、食を捨てた」
「わかった」
俺は、異世界デリバリーで粟を取り寄せた。日本の粟——もち粟だ。この世界の粟よりずっと粒が細かく、炊き上がりがふっくらとする。水は清流のもの。塩は、ほんのひとつまみだけ。それ以上は入れない。当時の彼の母が、入れられなかったように。
そして、もう一品だけ添える。梅干しだ。紀州の南高梅。塩だけで漬けた、しょっぱくて酸っぱいだけの梅干し。これは、将軍の母が入れられなかった“贅沢品”だ。だが——今の彼にこそ、これが必要だ。
トシからもらった神穀マナムギは使わない。これは、神の力ではなく、ただの人間の、ただの粥であるべきだ。なぜなら——将軍が拒絶しているのは“食の奇跡”そのものだから。奇跡を振る舞えば、彼はますます食を呪うだろう。
そうではない。食とは本来、奇跡ではない。ただの、生きるための行為だ。
土鍋で粟をじっくりと炊く。弱火で、時間をかけて、粟の粒がふっくらと開くまで。台所に広がるのは、素朴な穀物の香りだけだ。
そして、できあがった粥を茶碗によそい、梅干しを添える。それだけ。
「できた。食え」
ヴォルフガングは茶碗を見下ろした。粟の粥と、梅干しひとつ。あまりにも質素な、あまりにも貧しい一食。
「……これが、お前の料理か」
「そうだ」
「カツ丼でもなければ、焼き鳥でもない。ただの粥だ」
「ああ。ただの粥だ。お前のために作った、ただの粥だ」
将軍は箸を取った。痩せ細った指が、かすかに震えている。彼は一口、粥をすくい、口に運んだ。
——次の瞬間、将軍の手が止まった。
「……なんだ」
「どうした」
「味が、する。粟の味だ。なんでだ。粟に味なんて、なかったはずだ」
「粟には味がある。お前が忘れてただけだ」
「……これは」
「子供の頃、お前はこの味を知ってたはずだ。貧しくても、腹を空かせていても、母さんが作った粥だけは、ちゃんと味がしたはずだ。そうじゃないか」
将軍は、もう一口、粥を口に運ぶ。その目が、遠くを見ている。いや、遠い過去を見ている。
「……母さんは、いつも言っていた。『腹が減ったら、味なんてどうでもいい。ただ、あったかいものを食えば、それで生きていける』と」
「いい母親だ」
「だが、死んだ。粥じゃ、救えなかった」
「救えなかったんじゃない。それでも、お前は生き延びた。その粥があったから、お前は今日まで生きている」
将軍の箸が、梅干しに伸びる。彼はそれをかじり、酸っぱさに顔をしかめ、それから——かすかに、目を見開いた。
「……しょっぱい」
「塩だ」
「こんなもの、うちの粥にはなかった」
「ああ。だから、俺が入れた。これは俺からお前への、差し入れだ」
将軍は梅干しを粥に溶かし、一口、また一口と食べ進めた。その速度が、徐々に早くなる。飢えているからではない。味を、取り戻しているからだ。
そして——最後の一粒を平らげた時、彼の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「……十年ぶりだ」
「なにが」
「腹が、あったかいと思ったのは。飢えが苦痛ではなく、生の実感だった頃のことを、思い出した」
「お前は間違ってた。飢えは力じゃない。飢えは——ただの空腹だ。満たすためにある」
「満たすために」
「そうだ。そして満たされた腹は、次の一歩を生み出す」
将軍は茶碗を置き、深く息を吐いた。その顔に、初めて“生気”というものが宿ったように見える。
視界にポップアップが浮かぶ。
【ヴォルフガング 状態変化】
【常時飢餓(呪い)が“空腹感”に緩和】
【味覚完全回復】
【忠誠度変動なし——ただし“敵対心”が50%減少】
「……カズマ」
「なんだ」
「降伏はしない。帝国将軍としての責務がある。だが——この街を攻めるのは、ひとまず中止する」
「条件があるんだろう」
「ああ。毎日、この粥を俺に届けろ。戦場がどこであろうと、必ずだ」
俺は少しだけ笑った。
「毎日、ここまで食いに来い。出前はやってない」
「……交渉の余地はないか」
「ない」
将軍は立ち上がった。その背中は、来た時より、ほんの少しだけ丸みを帯びている。
「では、明日また来る」
「ああ、待ってる。明日は味噌汁もつける」
「……楽しみにしておこう」
ヴォルフガングは広場を去っていった。外套が夕風に揺れ、その後ろ姿が街の門の向こうに消えるまで、誰も言葉を発しなかった。
「……勝った、のか?」
ギリアムが呆然と呟く。
「勝ったんじゃない。満腹にしただけだ」
「それで戦が止まるのか」
「明日も食わせる。明後日もだ。食わせ続ければ、戦う理由を忘れる」
リリアがため息をついた。
「あんた、将軍まで常連にする気か」
「すでに常連だ。明日の朝も来る」
グレゴールが静かに鍋をかき混ぜながら言った。
「……これで、帝国本隊の進軍は止まった。だが、問題は別にある」
「なんだ」
「飢餓神獣ガルムだ。将軍は食を取り戻しつつある。ならば——将軍が制御していたガルムが、暴走する可能性がある」
「……それは」
「将軍が飢えを失えば、ガルムは主を失い、飢えのままに暴れる」
俺は北の空を見つめた。森の向こう、シロガネとトシがいる方角だ。ガルムが来るなら、あそこが戦場になる。
「なら、次はそっちの準備だな。将軍の次は、獣を満腹にさせる」
「獣を満腹にさせるって……」
「やることは同じだ。腹を空かせた奴に、飯を食わせる」
(第15話 終)
▼ 次回予告(第16話用の引き)
将軍が屋台に粥を食いに来るようになって三日。森の奥で、異変が起きた。
シロガネの遠吠え。トシからの緊急伝令。
「カズマ、来た。ガルムが——思ってたよりずっとデカい!」
(次話:「飢餓神獣、目覚める」)




