第14話「食神、フェンリルの巣に籠る」
翌朝、俺はトシを連れて、街の北に広がる深い森へと足を踏み入れていた。
「なあカズマ。ほんとにここ、行くのか」
「当たり前だ」
「俺、フェンリルってあんまり得意じゃないんだよ。ほら、神様って狼に食われるイメージあるだろ。ラグナロク的な」
「北欧神話か。お前は日本の神だろ」
「神話は全部つながってるんだよ、意外と」
トシはぶつぶつ文句を言いながらも、俺の後ろをちゃんとついてくる。今日は気配を消さず、普通の人間の姿で歩いていた。着物の裾が枯れ葉にすれ、ひさごが腰でかたかた鳴っている。
クロが先頭を歩いていた。時折立ち止まり、鼻をひくつかせ、尾を振って方向を示す。母親の巣穴へ案内しているのだ。森の空気は冷たく、木々の間から差す朝日が、苔むした地面にまだら模様を描いている。
やがて、巨木が倒れ重なった谷間に出た。岩壁には、人が余裕で通れそうな横穴がぽっかりと口を開けている。クロは迷いなくその中へ消え、すぐに「くぅん」と呼ぶ声がした。
「ここだ」
「……思ったより、おっきい穴だな」
「フェンリルだからな」
穴をくぐると、内部は驚くほど広かった。天井は三階建ての建物ほども高く、壁には燐光を放つ苔がびっしりと生えている。青白い光が洞窟全体をぼんやりと照らし、空気はひんやりと澄んでいる。
そして、奥の巨大な寝床の上に——シロガネが伏せっていた。
銀色の毛並みは前回よりさらに輝き、金色の両眼は来訪者をじっと見据えている。巨体がゆっくりと起き上がると、洞窟全体がかすかに震えた。
「カズマ。それと——そっちの、妙な気配の男は」
「食神だ」
「……神」
「そう。トシという。しばらく、ここに匿ってほしい」
シロガネの金眼が、トシを舐めるように眺めた。トシはひきつった笑顔で手を振る。
「ど、どうも。食神です。いつも娘さんにはお世話になってます」
「神が、なぜ私の巣に」
「帝国に狙われててな。奴ら、神を殺す兵器を持ってる」
「……神殺し」
「飢餓神獣ガルムという。食の概念を反転させて、食神を消滅させるように設計された獣だ」
シロガネは長い沈黙の後、ゆっくりとまばたきをした。
「なるほど。飢餓か」
「知ってるのか」
「古い話だ。かつて、この世界に飢餓が満ちた時代があった。フェンリルの祖は、飢餓を食い尽くすために創造された。我々は“飢餓の天敵”だ」
「じゃあ、もしかして」
「ああ。そのガルムとやらが来るなら——私の牙は、役に立つかもしれん」
トシがほっと息をつく。
「なんだ、心強いじゃないか」
「ただし、条件がある」
「なんだ」
「神よ。お前もまた、ここにいる間は“客”ではない。“家族”だ。娘と同じように、お前にも飯を寄越せ」
「……え、俺、神なんですけど」
「神であろうと、腹は減るだろう」
「減りますけども」
俺は思わず笑った。シロガネは筋金入りの食いしん坊だ。
「わかった。定期的に俺が食料を届ける。トシ、お前はしばらくここで、シロガネとクロと暮らせ」
「マジかあ……フェンリル二匹と同居って、食神の俺が食われそうな状況なんだけど」
「食われたら、それはそれで運命だ」
「ひどい!」
シロガネが尾を揺らし、洞窟の奥から何かをくわえて持ってきた。どさりとトシの前に落とされたのは、巨大な骨付き肉——この世界の野牛の大腿骨だ。まだ血が滴っている。
「飯だ。食え」
「いやいやいや、俺、生肉は遠慮したいんだけど」
「火はない」
「カズマあああ」
「神だろ、なんとかしろ」
結局、トシは観念して、ひさごから小さな調理器具を取り出し始めた。どうやら、神様のひさごは四次元ポケットらしい。七輪と炭、網、そして醤油まで出てくる。
「しょうがないなあ。神直伝の焼き肉にしてやるよ」
「……焼くのか」
「焼くんだよ。フェンリルって焼き肉食ったことある?」
「ない」
「よし、初体験ってやつだ」
洞窟内に、炭火の香ばしい匂いと、焼ける肉の煙が立ちこめ始める。シロガネが金色の目を丸くして七輪を見つめ、クロが尾を振りながらぴょんぴょん跳ねている。
「お前ら、ちょっと離れろ。毛が燃える」
「……いい匂いだ」
「だろ?肉は焼くと、もっとうまいんだよ」
俺はその光景を見ながら、しばらく考えていた。
ガルムが飢餓の獣なら、シロガネは飢餓を食い尽くす獣——天敵同士の戦いになる。トシをここに置くことは、単なる隠蔽ではなく、一つの防衛線を張ることにもなる。
「シロガネ」
「なんだ」
「ガルムがもし来たら——お前に任せてもいいか」
「もちろんだ。私の牙は、飢餓を喰らうためにある。ただし」
「ただし」
「あの焼き肉とやらを、定期的に食わせろ」
「……わかった」
こうして、食神トシの「フェンリル巣穴疎開」は決まった。
俺が街へ戻る頃、洞窟の中では、トシがシロガネとクロに焼き肉を振る舞いながら、神話の講釈を始めていた。
「いいか、焼き肉のコツはな——」
フェンリルたちがそれを真面目に聞いているのかどうかは、定かではない。
街に戻ると、広場はすでに炊き出しの準備で賑わっていた。
グレゴールが大鍋を据え、リリアが薪を割り、ギリアムが冒険者たちに指示を出している。屋台のカウンターには「本日炊き出し おにぎりと味噌汁 無料」という立て札が掲げられていた。
「カズマ、戻ったか」
グレゴールが顔を上げる。
「どうだった」
「トシは無事に隠れた。ついでに、フェンリルがガルムの天敵らしい」
「……それは心強い」
「ああ。こっちの進捗は」
「味噌汁は二鍋、おにぎりは三百個。まだ足りんが、初日としては上々だ」
「すごいな、もう」
「元聖餐卿を舐めるな。炊き出しは教会の基本業務だ」
ギリアムが近づいてきた。手には、例の曲げわっぱを持っている。今朝、彼が自ら炊いた麦飯が入っているらしい。
「カズマ。将軍が動き始めた」
「情報か」
「ああ。監察局のランドルから伝言だ。帝国本隊が国境を越え、街道を南下中。予定より早い。到着は——五日後だ」
「五日」
「ああ。急ごう」
俺は腕まくりをしながら、広場を見渡した。列は長く、老若男女が並んでいる。戦を前にして逃げ出したい者もいるだろうが、それでも、腹が減れば人は飯を食う。
「よし。やるぞ」
俺はカウンターに立ち、最初の客に声をかけた。まだ幼い女の子を連れた母親だった。
「いらっしゃい。おにぎりと味噌汁、あつあつだぞ」
母親はおずおずとおにぎりを受け取り、一口かじる。それから、ほっと息をついて笑った。
「……あったかい」
「そうだろ」
「子供に、こんなちゃんとした飯を食わせられるの、久しぶりで」
俺は黙って次のおにぎりを渡す。その後ろでは、グレゴールが味噌汁をよそい、リリアが薪をくべ、ギリアムが子供を肩車して列を見せている。
トシがいなくても、この街にはもう、味が満ち始めている。
(第14話 終)
▼ 次回予告(第15話用の引き)
炊き出し四日目、広場に一人の旅人が現れた。ボロボロのマントをまとい、痩せ細った体で、それでも背筋を伸ばして歩いている。
「……ここが、例の屋台か」
その声に、ギリアムが凍りついた。
「——将軍」
飢餓将軍ヴォルフガング。十日のはずが、たった四日で現れた。
「カズマとやら。話を聞こう」
(次話:「飢餓将軍、屋台に立つ」)




