第119話「旅立ちの味」
宴の余韻が静かに消えていった翌朝、屋台にはいつも通りの朝が訪れていた。しかし今日は、ほんの少しだけ空気が違う。広場には別れの気配が漂い、弟子たちはそれぞれの旅支度を整え始めていた。
リクが本店の前に立ち、母の鉄鍋を背負い直した隣には、サジョウが小さな包みを抱えて立っている。
「師匠、私たち、今日発ちます」
「ああ。村の屋台は任せたぞ」
「はい。でも——必ず戻ってきます。ここは俺の、もう一つの故郷ですから」
「わかってる。いつでも帰って来い」
サジョウが一歩前に出て、包みを差し出した。
「カズマ殿——これは私が初めて一人で完成させた粥のレシピです。よかったら、屋台のメニューに」
「いいのか。お前だけの味だろう」
「はい。でも——私の味を、ここに置いていきたいんです。私がここにいた証として」
「ありがたく受け取る。これは“サジョウの粥”として、今日からメニューに入れる」
「……ありがとう、ございます」
サジョウは深く一礼し、涙をぬぐって微笑んだ。その隣で、リクが「またな、みんな!」と手を振り、二人は東への街道を歩き始める。見送る弟子たちも、常連客たちも、それぞれが「またな」と手を振り返していた。
昼前、シノが改まった様子で俺の前に立った。
「師匠——俺、二号店の店長として、ここに残ります。弟子の子供たちも、まだまだ教えなきゃいけないことがたくさんありますから」
「ああ。二号店はお前に任せてある。好きにやれ」
「はい。それから——師匠にお願いが」
「なんだ」
「俺の卵かけご飯、本店のメニューにも入れてもらえませんか。最初は師匠の真似から始まった俺の味です。それを、師匠と同じ厨房に出したいんです」
「いいだろう。今日からメニューに入れる」
「……ありがとうございます!」
シノは包丁を握りしめ、深く一礼した。その目にはもう、弟子入りした当初の不安はない。自分の味を信じ、誰かに教え、誰かに届ける——立派な料理人の目だった。
夕方、アリシアが王宮から本店へと戻ってきた。手には新しい養生スープの試作品が入った鍋が提げられている。
「師匠、今日の公務が少し早く終わりました。よかったら味見を」
「ああ」
一口すすると、柑橘の爽やかさと薬草の清涼感がこれまで以上に深く調和している。
「うまいな。もう完成でいい」
「ありがとうございます。それで——師匠、今日はお願いがあって来ました」
「なんだ」
「私の養生スープも、本店のメニューに加えていただけませんか。王女としてではなく、一人の料理人として——ここに自分の味を残したいんです」
「いいだろう。今までだって、ずっとお前の味だった。正式にメニュー入りだ」
「……ありがとうございます」
アリシアは少しだけ目を潤ませ、深く一礼した。彼女が本店を去り際、リリアとすれ違う瞬間、二人は無言でうなずき合う。今ではそれだけで十分だった。
夜、本店のカウンターで最後の営業を終えた後、いつもの顔ぶれが揃っていた。リリアが茶をすすり、将軍が粥の鍋を静かに片付け、グレゴールとエレナが漬物の甕を閉じる。シノが二号店から顔を出し、弟子の子供たちの今日の成果を嬉しそうに語った。
「なあ、カズマ」
リリアが茶碗を置いて言った。
「みんな、少しずつ旅立っていくな」
「ああ。でも、それでいい。弟子は出て行くものだ」
「寂しくないか」
「寂しくないと言ったら嘘になる。だが——ここに残る者もいる」
「……そうだな。私は、ずっとここにいるよ」
「ああ。わかってる」
リリアは少しだけ微笑み、茶を一口すすった。その隣には、トシが置いていった小さな扇子が、かすかに風に揺れている。その絵には——旅立つ者、残る者、そしてそれを見守る屋台の灯りが、静かに描かれていた。
(第119話 終)




