第120話「屋台は終わらない — 終わりの後の新しい始まり」
朝が来た。いつもと変わらぬ朝だった。東市場の空に朝日が昇り、常連客たちが列を作り、将軍の粥の湯気が静かに揺れている。
だが今日は、ほんの少しだけ違うことがあった。本店の厨房に立つ俺の隣で、リリアが茶をすすりながら言った。
「なあ、カズマ。今日で最後なんだろ、一区切りってやつが」 「ああ。世界の味は戻り、敵は去り、弟子たちはそれぞれの道を歩き始めた。俺の役目も——ひとまず終わりだ」 「ひとまず、か」 「ああ。腹を空かせた客がいる限り、屋台は終わらない。だから——今日で終わりじゃない。今日からまた、新しい日常が始まるだけだ」
リリアは少しだけ微笑み、茶碗を置いた。
「そうだな。終わりじゃない。始まりだ。ここに来た時から、ずっとそうだった」 「ああ」
朝の営業が始まり、常連客たちが次々に詰めかける。焼きおにぎりの香ばしい匂い、味噌汁の湯気、卵かけご飯の黄身の輝き——そのすべてが、何百回と繰り返してきた日常だった。しかし今日は、そのすべてがひときわ愛おしく感じられる。
昼前、シノが二号店から顔を出し、弟子の子供たちを連れて来た。子供たちは今では自分たちでおにぎりを握れるようになり、その不格好な握り飯を常連客に振る舞っては「うまい」と言われて嬉しそうに笑っている。
「師匠、弟子たちがどうしても師匠に挨拶したいと」 「どうした」
子供の一人がおずおずと前に出て、小さな包みを差し出した。
「カズマさん——これ、ぼくたちが初めて自分で握ったおにぎりです。どうぞ」 「うまそうだ」
一口かじる。塩が少し多い。形もいびつだ。握り加減もまだまだ不安定で、噛むとほろほろと崩れてしまう。だが——そのすべてが、彼らの「誰かに届けたい」という想いの証だった。
「うまいよ。よくできた」 「……ほんとですか!」 「ああ。お前たちはもう、立派な料理人だ」
子供たちは飛び上がって喜び、シノが照れくさそうに頭をかく。その光景を、リリアが茶をすすりながら微笑んで見守っていた。
午後、アリシアが王宮から本店へと足を運んだ。戴冠式以来、彼女は週の半分を王宮で、半分を屋台で過ごしている。今日はその屋台の日だった。
「師匠——今日は私の養生スープ、お客様から『涙が出るほど温かい』と言われました。メニュー入りさせていただいて、本当によかった」 「ああ。お前の味は、もう多くの者に届いている。これからも——作り続けろ」 「はい。師匠に教わったことを胸に、ずっと」
そこへ、広場の入口に見慣れた影が二つ。東の街道から戻ってきたリクとサジョウだった。手には村で収穫されたばかりのアオサや干し魚が抱えられている。
「師匠!村の屋台、繁盛してます!それで、食材を届けに来ました!」 「定期的に通います。私も——ここに自分の味を置いた者として、皆の顔を見に来たいから」 「いつでも来い。ここはお前たちの場所だ」
夕暮れ、本店のカウンターに全員が集まった。将軍が両店舗の粥の出来を報告し、グレゴールとエレナが新作の漬物の甕を開け、ゴルドアとマクシミリアンが市場の見回りから戻り、ギリアムが大剣を壁に立てかける。ヴァルケンたちは自分たちの味噌汁を振る舞いながら、明日の仕込みの相談をしていた。エルムは静かに杖をつきながら、広場の賑わいを見守っている。
そして——ふわりと、見知った二つの気配がカウンターの隅に現れた。
「やあ、カズマ。最後の晩餐にはまだ早いか」 「最後じゃない。一区切りだと何度も言ってる」 「そうだったな。じゃあ、新しい始まりの乾杯だ」
トシが扇子を広げて笑い、グーラが静かにうなずく。その扇子の絵は——本店と二号店、そして世界中の祠と、そのすべてを結ぶ無数の道。その中心に、一つの灯りが描かれていた。
「綺麗な絵だ」 「だろ。これが今の世界だ。全部お前が繋いだんだ」 「俺だけじゃない。ここにいる全員で繋いだ」
リリアが最後の茶をすすりながら言った。
「そうだな。みんなで繋いだ——この屋台を」 「ああ」
宴が静かに終わり、それぞれが明日の準備に戻っていく。シノは弟子たちを引き連れて二号店へ帰り、アリシアは王宮への戻り支度を整え、リクとサジョウは食材の荷解きを始めた。将軍は明日の粥の仕込みに余念がなく、グレゴールとエレナは漬物の甕を静かに閉じる。ヴァルケンたちは最後の見回りに出かけ、ゴルドアとマクシミリアンがその後を追った。
夜が更けて、市場に静けさが戻る。俺は一人、本店のカウンターに立ち、最後の炭火を見つめていた。
——ここまで長かった。異世界に転生し、毒を盛る側から料理を作る側になった。屋台を始め、仲間と出会い、敵と戦い、時に神々とすら渡り合った。世界の味を守るために旅をし、弟子たちはそれぞれの道を歩き始めた。
だが、俺の役目は終わらない。腹を空かせた客がいる限り——明日も明後日も、焼きおにぎりを握り続ける。それだけが、屋台シェフである俺の生き方だからだ。
炭火が静かに消えていく。明日、また新しい火を熾すために。
カウンターの隅には、トシが置いていった小さな扇子がかすかに風に揺れ、その絵の中の灯りが静かに輝いていた。世界のどこかで今日も誰かが空腹を抱え、この灯りのもとへと歩いてくる——屋台は、決して終わらない。
(第120話 終)
— 屋台は終わらない。これは終わりではなく、新しい始まり。—




