第117話「夜明け前」
その夜、本店の灯りが静かに揺れていた。広場にはもう誰もおらず、二号店の暖簾も下ろされ、市場全体が深い眠りについている。ただ本店のカウンターだけが、かすかな灯りをともし続けていた。
俺は一人、明日の仕込みをしながら夜風に当たっていた。炭火は熾きているが、もう料理を作る時間ではない。ただなんとなく、この静かな時間を一人で過ごしたかった。
「まだ起きてたのか」
声のほうを向くと、リリアが立っていた。いつもの弓は背負っておらず、手には茶碗が一つだけ握られている。
「あんたこそ」
「眠れなくてな」
彼女はいつもの席に座り、茶を一口すする。
「明日も早いんだろ。寝なくて大丈夫か」
「ああ。今日は少しだけ、夜風に当たりたかった」
しばらく、無言の時間が流れた。炭火がぱちりと鳴り、遠くで夜鳥が一声鳴く。リリアは茶碗を両手で包み込み、湯気の向こうで何かを考えているようだった。
「なあ、カズマ」
「なんだ」
「あんたは、後悔してないか」
「何を」
「全部だ。異世界から来て、屋台を始めて、世界中の味を救って——そして、ここに留まること」
「していない」
俺はすぐに答えた。
「俺はかつて、人を殺す側だった。毒を盛り、裏切り、生き延びるためだけに生きていた。そんな俺が、今は誰かの腹を満たし、誰かの心を解きほぐしている。後悔などあるはずがない」
「……そうか」
リリアは茶を一口すすると、少しだけ微笑んだ。
「私は、エルフの里を飛び出してからずっと、自分の居場所を探していた。傭兵をしたり、冒険者をしたり——でも、どこにも長くは留まれなかった」
「今は」
「ここが、私の居場所だ。弓を構えながら、茶をすすりながら——誰かを守れる。それだけで、十分だと思える」
「ああ。ここはお前の居場所だ」
「……ありがとう」
「礼を言うのはこっちだ。お前がここにいてくれたから、屋台は続いてきた」
リリアは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げて言った。
「なあ、カズマ。私はこれからもここにいる。戦いが終わっても、平和になっても——ここで茶をすする。それが私の生き方だ」
「ああ。わかってる」
「だから——」
彼女は言葉を切り、茶碗を見つめた。その口元がかすかに震え、何かを言いかけて——しかし、結局、言葉にはならなかった。
「明日も早い。そろそろ寝ろ」
俺が言うと、リリアは小さくうなずき、立ち上がった。
「……ああ。おやすみ」
「おやすみ」
彼女が去った後、カウンターの隅に置かれた小さな扇子が、かすかに風に揺れている。トシが置いていったものだ。その絵には、本店の屋台と、そこに集うすべての者たちの姿が描かれている。
俺は炭火に新しい炭をくべ、明日の仕込みに戻った。夜明けまであと少し——明日もまた、腹を空かせた誰かのために、この屋台は開き続ける。
(第117話 終)




