第116話「残る者、残る味」
リクが東方への帰路につき、サジョウが一人前の料理人として二号店の厨房に立ち始めてから、数日が過ぎた。屋台の日常は変わらず賑わい、常連客たちは今日も焼きおにぎりや味噌汁を求めて列を作る。しかしその空気には、どこか静かな落ち着きが漂っていた。長い旅と戦いを経て、ここに残った者たちが、それぞれの場所で日常を紡いでいる。
朝の本店で、俺はいつも通り炭火を起こしていた。リリアがカウンターの隅で茶をすすり、将軍が粥の大鍋をかき混ぜ、グレゴールとエレナが漬物の甕を開ける。そこへ、二号店からシノが顔を出した。
「師匠、今日の卵かけご飯の仕込み、少し多めにしてもいいですか。弟子の子供たちが、最近うまくなってきて、もっと作りたいって言うんです」
「いいだろう。卵の仕入れは足りてるか」
「はい。養鶏場のおばさんが、弟子の修行用にって少し多めに回してくれてます」
「そうか。好きに使え」
シノは深くうなずき、包丁を握り直した。彼が子供たちに教える姿は、かつて俺が彼に教えた姿そのものだ。教え継がれていく味が、確かにここにはある。
昼前、サジョウが本店に姿を現した。手には自分で握ったおにぎりが一つ、皿にのせられている。
「カズマ殿——これ、私が一人で握ったおにぎりです。よかったら、味見を」
俺は一口かじる。塩加減は少し強いが、握りの硬さは悪くない。そして何より——このおにぎりには、彼女の「誰かに届けたい」という想いが込められていた。
「うまいよ。合格だ」
「……ほんと、ですか」
「ああ。お前だけの味だ。自信を持て」
サジョウは包丁を胸に抱き、涙をこぼしそうになりながら深く一礼した。彼女の隣では、シノが「よかったな」と笑い、将軍が無言でうなずいている。
夕方、アリシアが王宮での公務を終え、いつもの調理服に着替えて本店に現れた。手には新しい養生スープの試作品が入った鍋が提げられている。
「師匠、今日は王宮の厨房で栽培を始めた薬草を初めて使ってみました。味見をお願いします」
一口すすると、柑橘の爽やかさと薬草の清涼感が絶妙に調和している。以前よりずっと深みがあり、それでいて優しい味わいだった。
「いい味だ。これなら王宮でも評判になるだろう」
「ありがとうございます。でも——このスープは王宮だけのものじゃありません。ここでも、いつか振る舞いたい」
「いつでも作れ。厨房はいつでも空いてる」
アリシアは微笑み、鍋を抱え直した。彼女が王女として、料理人として二つの道を歩む姿は、今では誰の目にも自然なものに映る。リリアが茶をすすりながら言った。
「あんた、忙しいのにようやるよ」
「リリアさんがここを守ってくれているから、私は安心して両方をやれるんです」
「……私は何もしてない。ここで茶を飲んでるだけだ」
「それだけで十分です」
リリアは少しだけ照れくさそうに茶碗を見つめ、それから口元を緩めた。
夜、本店のカウンターに全員が集まった。将軍が両店舗の粥の出来を淡々と報告し、グレゴールとエレナが新作の漬物を披露し、ヴァルケンたちが明日の仕込みの相談をする。弟子たちはそれぞれの新メニューの試作に余念がない。
「なあ、カズマ」
リリアが茶をすすりながら言った。
「あんた、これからどうするつもりだ」
「どうするとは」
「世界の味は戻った。敵も去った。弟子たちは育った。あんたの役目は——もう終わったんじゃないか」
「終わってない」
俺は焼きおにぎりを網に並べながら静かに答えた。
「腹を空かせた客がいる限り、俺の役目は終わらない。明日も明後日も、焼きおにぎりを握る。それだけだ」
「……それだけか」
「それだけで十分だ」
リリアは少しだけ微笑み、茶碗を置いた。
「じゃあ、私もそれでいい。ここで茶をすすりながら——ずっとな」
「ああ。ここにいろ」
そこへ——ふわりと、見知った気配が二つ、カウンターの隅に現れた。トシが扇子を広げて笑い、グーラが静かに一礼する。
「やあ、カズマ。久しぶり」
「また立ち寄ったのか」
「ああ。今度はちょっと長居するかもな。世界中の味が戻ったし、俺たち食神の仕事も一段落ついたから」
「好きにしろ」
「そうするよ。それと——扇子の絵が新しくなったんだ。見るか」
トシが広げた扇子には、本店と二号店、その周りに集う無数の人々——弟子たち、戦士たち、将軍、グレゴール、エレナ、リリア、アリシア、シノ、サジョウ、そして遠く東の空の下に立つリクの姿までが描かれていた。
「……いい絵だ」
「だろ。これが、今の俺たちの世界だ」
夜が更けて、市場に静けさが戻る。本店の灯りと二号店の灯りが、王都の夜を静かに照らし続けていた。ここに残る者たちの味が、明日もまた誰かの腹を満たすために——屋台の灯りは決して消えない。
(第116話 終)




