第115話「潮騒の帰還」
二号店の朝は、いつもリクの鉄鍋の音で始まる。東方の干し魚を戻す水音、アオサの粉末をすり鉢で挽く心地よいリズム——そのすべてが、彼の故郷の潮の香りを屋台に運んでいた。
「リクさん、今日の潮騒の味噌汁、いつもより香りが強い気がします」
サジョウが鍋を覗き込みながら言った。
「わかりますか。実は村から新しいアオサが届いたんです。春の若芽だけで作った特別なやつで、香りがぜんぜん違うんです」
「そうだったんですね。いい香り」
「はい。母さんも、このアオサが一番好きでした」
そこへ、常連客の一人が顔を出した。
「リク、そろそろ村に帰るんだってな」
「はい。明日、一度村に戻ります。ここの二号店も大事ですけど、村の屋台も放っておけなくて」
「そうかあ。寂しくなるな」
「大丈夫です。定期的に食材を届けに来ますし、村にも遊びに来てください。潮騒の味噌汁、ごちそうしますから」
「そりゃ楽しみだ」
客が去った後、サジョウが静かに口を開いた。
「リクさん——私も、いつか自分の故郷に帰ることがあるのかな」
「自分の故郷、ですか」
「はい。私にはもう、帰る場所があるかどうかわからない。残香の権能に取り憑かれていた頃の私は、村の人たちに迷惑をかけて、追い出されて——」
「サジョウさん」
リクは鉄鍋を置き、まっすぐに彼女を見た。
「ここが、あなたの故郷です。師匠がいて、みんながいて、あなたの料理を待っている人たちがいる」
「……私の料理を」
「はい。あなたの粥は、もうあなただけの味だ。誰にも真似できない。なら——ここが、あなたの帰る場所だ」
サジョウは包丁を握りしめ、深くうなずいた。その目に浮かぶ涙をぬぐい、それから微笑む。
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい」
「俺もです。サジョウさんがいてくれて、よかった」
翌朝、リクは旅支度を整え、本店の前に立っていた。背には母の鉄鍋と、東方から運んできたばかりの新しいアオサの束が積まれている。見送りには弟子たち、将軍、グレゴールとエレナ、ヴァルケンたち、そして常連客たちが集まった。
「師匠——行ってきます」
「ああ。村の屋台を頼んだぞ」
「はい。必ず、両方の屋台を盛り立てます。ここも、村も——どっちも俺の故郷ですから」
「いい顔になったな」
「師匠のおかげです」
リクは深く一礼し、鉄鍋を抱え直した。その目は、初めて弟子入りした時とはまるで違う輝きを放っている。
サジョウが一歩前に出て、小さな包みを差し出した。
「リクさん——これは私が初めて一人で作った粥の素です。よかったら、村の人たちに」
「ありがとうございます。必ず届けます」
「また、ここで会いましょう」
「はい。必ず」
リクは背筋を伸ばし、東への街道を歩き始めた。見送るサジョウの手には、彼から教わったアオサの粉末を握った包丁が、しっかりと握られている。
その夜、本店のカウンターでリリアが茶をすすりながら言った。
「リクも、すっかり一人前だな」
「ああ。弟子たちはみな、自分の道を歩き始めている。それが自然なことだ」
「寂しくないか」
「寂しい。だが——ここに残る者もいる」
「……そうだな」
リリアは茶を一口すすり、それから静かに微笑んだ。屋台の灯りが、今日も王都の夜を静かに照らしている。
(第115話 終)




