第114話「最初の一皿」
朝の市場に、いつもと変わらぬ賑わいが戻っていた。本店の屋台には常連客が列を作り、二号店ではシノが弟子の子供たちに卵の割り方を教えている。サジョウは今日も将軍の粥の盛り付けを手伝い、リクは東方から届いたばかりの干し魚を検分していた。すべてが普段通り——しかし、俺は今日、少しだけ違うことをしようと思っていた。
「リリア。ちょっと来い」
カウンターで茶をすすっていたリリアが顔を上げる。
「なんだ、改まって」
「お前に、最初に食わせた料理を覚えているか」
「最初?」
彼女は少しだけ首をかしげ、それから口元を緩めた。
「焼きおにぎりだ。あの日、あんたの屋台に初めて来た時——塩むすびに醤油を塗って、炭火で焦がしたやつだ」
「そうだ。今日はそれを作る。お前だけのためにな」
「……私だけのため?」
「ああ。長い間、お前には世話になった。だから——今日は俺が、お前のためにだけ料理を作る」
リリアは一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ照れくさそうに茶碗を見つめた。
「……珍しいこともあるもんだな」
「たまにはな」
俺は本店の厨房に立ち、米を研ぎ、塩をひとつまみ。握り慣れた手つきでおにぎりを握り、炭火でじっくりと焼く。醤油を刷毛で塗り、焦げた香ばしさが立ち上る——そのすべてが、これまで何千回と繰り返してきた動作だった。しかし今日は、そのすべてに「誰かのために」という想いが込められていた。
焼き上がったおにぎりを皿にのせ、リリアの前に差し出す。
「食え。最初の一皿だ」
「……いただく」
彼女は両手でおにぎりを受け取り、一口かじる。醤油の香ばしさ、米の甘み、炭火の風味——いつもと変わらぬ焼きおにぎり。しかし彼女は、いつもよりずっとゆっくりと、それを噛みしめていた。
「……うまい」
「そうか」
「あの日と同じ味だ。でも——」
「でも」
「あの日より、ずっと温かい。あんたの手が、見えるような気がする」
「俺の手は、いつもここにある」
「……ああ。そうだったな」
リリアは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げて、まっすぐに俺を見つめた。
「なあ、カズマ。私はこれからも、ここにいる。弓を置いても、戦いが終わっても——ここで、あんたの隣で茶をすする。それが私の生き方だ」
「ああ。わかってる」
「だから——これからも、よろしく頼む」
「こちらこそ」
それ以上、言葉はいらなかった。リリアは残りのおにぎりをかじり、俺は炭火をかき立てる。いつも通りの朝が、静かに流れていく。
夕方、二号店の厨房では、シノが弟子の子供たちに卵かけご飯の仕上げを教えていた。サジョウとリクもその様子を見守りながら、時折自分たちの作業に戻っていく。
「師匠——今日は朝から本店で何かあったんですか」
シノがこっそり耳打ちする。
「別に。普段通りだ」
「でも、リリアさんがやけに静かに茶をすすってましたよ」
「いつものことだ」
「……そうですか。まあ、いいですけど」
シノは納得したような、しないような顔で包丁を握り直した。
夜、本店のカウンターに見知った二つの気配がふわりと現れた。トシが扇子を広げて笑い、グーラが静かに一礼する。
「やあ、カズマ。久しぶり」
「また立ち寄ったのか」
「ああ。今日はなんだか——ここの焼きおにぎりが一番うまく感じる日なんだ」
「それはよかった」
「で、リリアは?」
「もう宿に戻った」
「そっか。まあ、たまにはゆっくり茶でも飲んでるといいさ」
トシは新しい扇子を広げた。そこには本店の屋台と、カウンターに座る一匹の狼と、茶をすするエルフの横顔が描かれている。
「お前たちも、ずいぶん長くここにいるな」
「ああ。ここが俺たちの居場所だからな」
「そうか」
グーラが静かにうなずき、二人は焼きおにぎりを一つずつ注文した。それが彼らの「ただいま」であり、俺の「おかえり」でもあった。
夜が更けて、市場に静けさが戻る。屋台の灯りは今日も消えず、明日への仕込みが静かに続いていた。誰かのために作る最初の一皿——その想いを胸に、屋台はこれからも続いていく。
(第114話 終)




