第107話「エルフの弓のゆくえ」
王都に静かな朝が訪れていた。戴冠式の熱気がようやく冷め、市場には普段通りの穏やかな空気が戻っている。屋台の前には今日も常連客が列を作り、将軍の粥やヴァルケンたちの味噌汁を待ちわびていた。
しかし、いつもならカウンターの隅で茶をすすっているはずのリリアの姿が、その日はまだ見えなかった。
「リリアはどうした」
「さあ、今朝はまだ来てないぞ」
ギリアムが大剣を研ぎながら答える。
「珍しいな。いつも一番に来るのに」
俺は炭火を起こしながら、少しだけ空を見上げた。彼女がいない屋台は、ほんの少しだけ静かだった。
やがて、リリアが市場の入口に姿を現した。いつもの弓を背負い、いつもの軽やかな足取り——しかしその手には、古びた矢筒とは別に、もう一つ小さな包みが抱えられていた。
「遅かったな」
俺が声をかけると、彼女は少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「ああ。ちょっとな——これを取りに行ってた」
包みを開くと、中には新しい弓の弦が入っていた。今まで使っていたものよりずっと白く輝き、触れるとかすかに震えるような張りを帯びている。
「エルフの里から取り寄せたのか」
「そうだ。里に一度だけ手紙を出してたんだ。もう戦うばかりが私の役目じゃないから——せめて弦だけでも、新しいものを張ろうと思って」
「いい弦だ」
「ああ。これで、もうしばらくは戦える。でも——」
「でも」
「戦うだけじゃなくて、ここを守るために使う。屋台を、みんなを——そして、あんたを」
俺は答えず、炭火をかき立てた。リリアもそれ以上は何も言わず、いつもの席に座って茶をすする。しかしその横顔は、どこか少しだけ柔らかかった。
午前の営業が一段落すると、シノとサジョウが新作の相談に来た。
「リリアさん、前に教えてくれた山菜の見分け方、すごく役に立ってます」
「そうか。エルフの里では、毒草と薬草の区別は基本だからな。サジョウも覚えたか」
「はい。まだ少し自信がありませんが——リリアさんのおかげで、だいぶ区別がつくようになりました」
「ならいい。私にできるのは、せいぜいそのくらいだからな」
リリアは少しだけ笑い、茶をすすった。
その後、彼女は久しぶりに弓を手に取り、市場の隅で弦の張り具合を確かめ始めた。新しい弦を何度も引き絞り、放す真似を繰り返す。そのたびに弓がかすかに唸り、空気を切り裂くような風切り音が響いた。
「調子はどうだ」
俺が声をかけると、彼女は弓を下ろして答えた。
「いい感じだ。でも——」
「でも」
「最近、弓を引く機会が減った。戦いが終わって、この屋台も平和になって——それはいいことだ。でも、たまに思うんだ。私の役目は、もう終わったのかもしれないって」
「役目は終わらない」
俺は静かに言った。
「お前がここにいるだけで、誰かが守られている。弟子たちも、常連客たちも、俺も——お前の存在に助けられている」
「……あんたがそんなことを言うなんて、珍しいな」
「たまにはな」
リリアは少しだけ目を丸くして、それから口元を緩めた。新しい弦を張った弓を、もう一度だけ引き絞り——今度は、どこか優しい音がした。
夕方、アリシアが王宮での公務を終えて屋台に顔を出した。
「リリアさん、今日は新しい弦を張ったのですか」
「ああ。見てたのか」
「はい。とてもいい音でした。弓の弦が奏でる音は、楽器のようだと思いました」
「弓は本来、戦いの道具だ。でも——そう言われると、少しだけ悪くない気分になるな」
「リリアさん——私も、あなたに守られてここまで来られました。ありがとうございます」
アリシアが深く一礼すると、リリアは照れくさそうに顔をそらした。
「……私は何もしてない。あんたが自分で立てるようになっただけだ」
「それでも——あなたがいてくれたから、私は自分の道を選べた」
「……そうか」
二人の間に、言葉ではない何かが通い合うのを、俺は静かに見守っていた。かつては距離のあった二人が、今はこうして互いを認め合っている。屋台がそういう場所になったことが、何よりも嬉しかった。
夜、店仕舞いをした後、リリアが一人でカウンターに残っていた。手には新しい弦を張った弓が置かれ、茶碗の湯気が静かに揺れている。
「なあ、カズマ」
「なんだ」
「私はこれからも、ここにいる。弓を構えながら——でも、戦うだけじゃなくて、ここで生きていく。それが私の答えだ」
「ああ。わかってる」
「それから——」
彼女は少しだけ言いよどみ、茶碗を見つめた。
「今日は、あんたの言葉に助けられた。ありがとう」
「礼はいらない。俺も——お前に助けられている」
「……そうか」
リリアは茶を飲み干し、静かに立ち上がった。去り際、一度だけ振り返り、何か言いたそうな目をしたが——結局、何も言わずに宿へ戻っていった。
カウンターの隅では、トシが置いていった小さな扇子が、かすかに風に揺れている。
明日もまた、日常が続く。しかしその日常の中に、少しずつ確かな絆が育まれている。言葉ではなく、存在そのもので誰かを守ること——それがリリアの新しい役目であり、彼女が選んだ生き方だった。
(第107話 終)




