第106話「戴冠式の養生スープ」
アリシアの戴冠式まで、あと三日に迫った王都は祝祭の準備に沸き立っていた。大通りには王国の旗が掲げられ、市場には式典を見物に訪れた旅人たちが溢れている。しかし当のアリシアは、そんな喧騒をよそに屋台の厨房に立っていた。
「師匠、戴冠式の晩餐で振る舞う養生スープの最終試作です」
彼女が差し出した椀を受け取り、一口すする。柑橘の爽やかな香り、薬草の清涼な苦味、そして岩塩の穏やかな塩味——それらが絶妙に調和し、飲む者の心を静かに解きほぐすような味わいだった。
「悪くない。でも、あとほんの少しだけ柑橘の皮を控えろ。祝いの場には、爽やかさより深みが要る」
「はい。やってみます」
アリシアが鍋に向き直ると、シノがそっと近づいた。
「アリシアさん、すごいですね。戴冠式で自分のスープを振る舞うなんて」
「ありがとう。でも——これも師匠のおかげ。私が几帳の向こうに隠れていた頃は、想像もできなかった」
「俺もです。母さんの包丁一本でここに来た時は、まさか卵かけご飯で大陸三位になれるとは思わなかった」
「シノ——」
サジョウがおずおずと手を挙げた。
「私も、戴冠式の準備を手伝いたいです。何かできることはないでしょうか」
「では、サジョウには薬草の選別を頼めるかしら。あなたの舌は、私よりずっと繊細だから」
「……はい!精一杯やらせていただきます」
サジョウは包丁を握りしめ、深くうなずいた。彼女が誰かの役に立てることを、心から嬉しく思っているのが伝わってくる。
そこへ、王宮からマルグリット侍従長が使いを寄越した。戴冠式の最終打ち合わせがあるという。アリシアは少し名残惜しそうに厨房を見回し、それから微笑んだ。
「では、行ってまいります。師匠——戴冠式には、ぜひいらしてください」
「ああ。屋台を閉めて行く」
「……ありがとうございます」
彼女が市場を去る後ろ姿を見送りながら、リリアが茶をすすって言った。
「あの子、ずいぶん強くなったな。初めてここに来た時は、顔も見せられなかったのに」
「ああ。自分の足で立っている。もう立派な王女であり、料理人だ」
「それもこれも、あんたの焼きおにぎりのおかげか」
「違う。決めたのはあいつ自身だ」
「……そうだな」
戴冠式の当日、王宮の大広間はかつてない華やぎに包まれていた。貴族や各国の大使が居並び、壁には王国の旗が掲げられ、シャンデリアの灯りが黄金に輝いている。中央の玉座には、真白の戴冠式用ドレスに身を包んだアリシアが座していた。
式が滞りなく進み、晩餐会が始まると、アリシア自らが厨房に立ち、養生スープを振る舞った。王宮の料理人たちが彼女の指示で動き、シノとサジョウも手伝いに加わっている。広間に運ばれたスープの椀から立ち上る湯気が、会場中に爽やかな香りを広げていった。
「これが——王女様のスープか」
老宰相が一口すすると、目を大きく見開く。
「……これは、ただのスープではない。飲む者の心を解きほぐす、優しい味だ」
「私が長年、毒に苦しみ、味覚を失い、それでも料理を作り続けた証です」
アリシアが静かに言った。
「このスープには、私を救ってくれたすべての人々の想いが込められています。師匠、兄弟子、仲間たち——そして、この国の民の」
「王女様——」
「私はこれから、王女として国を治めながら、料理人としても生きていきます。どちらか一方ではない。両方が私の道です」
広間から万雷の拍手が湧き起こった。リリアが柱の陰で微笑み、シノとサジョウが涙をぬぐって拍手を送る。将軍は無表情のまま、しかし静かに何度もうなずいていた。
俺は広間の隅で、その光景を見守りながら、アリシアが初めて解毒スープを作った日のことを思い出していた。まだ形も不揃いで、塩加減も不安定だったあのスープが、今や一国の王女の戴冠式で振る舞われている。
式の後、俺は一人、王宮の庭に出た。夜空には星が無数に輝き、遠くで祝いの鐘が鳴っている。
「——師匠」
アリシアが静かに歩み寄ってきた。戴冠式用のドレスから、すっかり普段の調理服に着替えている。
「今日はありがとうございました」
「礼を言うのはこっちだ。いい戴冠式だった」
「師匠が見ていてくれたから、私は立てました」
「俺は何もしてない。立てたのはお前だ」
アリシアは少しだけ目を潤ませ、それから深く一礼した。
「師匠——私はこれからも、ここで料理を作り続けます。王女として、料理人として。そして——」
「そして」
「いつか、あなたのようになりたい。誰かの腹を満たし、誰かの心を解きほぐす——そんな料理人に」
「お前はもう、そうなっている」
アリシアは涙をぬぐい、微笑んだ。その笑顔にはもう、かつての几帳の向こうに隠れていた面影はなかった。
屋台に戻ると、常連客たちが戴冠式の祝賀ムードで盛り上がっていた。将軍が粥の大盛りを振る舞い、ヴァルケンたちが味噌汁を配り、シノとサジョウが卵かけご飯を握っている。
「カズマさん!戴冠式、どうでした?」
「王女様のスープ、俺たちも食べたい!」
「そのうちな」
リリアが茶をすすりながら言った。
「おかえり。どうだった」
「ああ。よかった」
「そうか。じゃあ、いつも通りだな」
「ああ。明日も明後日も、焼きおにぎりを握る」
夜が更けて、市場に静けさが戻る。しかし屋台の灯りは今日も消えずに、明日への仕込みが静かに続いていた。
(第106話 終)




