第105話「兄弟子の役目」
リクが故郷の村へ旅立った翌朝、屋台には少しだけ寂しさが漂っていた。それでも常連客たちはいつも通りに詰めかけ、将軍の粥をすすり、ヴァルケンたちの味噌汁に舌鼓を打っている。サジョウは今日も将軍の粥の盛り付けを手伝いながら、自分の包丁の練習に余念がなかった。
しかしシノだけは、どこか浮かない顔でカウンターに立っていた。卵かけご飯の注文は相変わらず多いのに、その手つきにいつもの勢いがない。
「シノ、どうした」
俺が声をかけると、彼ははっと顔を上げた。
「あ、いや——師匠、ちょっとだけ、話が」
カウンターの隅に移動すると、シノは包丁を握りしめたまま、ぽつりと言った。
「リクが村に帰って、アリシアさんは王女の仕事と両立して、サジョウさんも一人で粥を作れるようになって——みんな、自分の道を見つけてる。俺だけが——」
「俺だけが、何も変わってないと思っているのか」
「……はい。俺、最初の弟子なのに。ずっと卵かけご飯だけで、他に何もできない」
「シノ。お前は今日、何人の客に卵かけご飯を出した」
「え……二十人くらい、です」
「そのうち何人に『うまい』と言われた」
「……みんな、です。でも——」
「みんなに『うまい』と言わせる料理を作れる料理人が、どれだけいると思う」
「それは——」
「お前の卵かけご飯は、もうお前だけの味だ。師匠の真似でも、母さんの再現でもない。誰かのために、自分の味を届けられる——それが料理人だ。変わっていないわけじゃない。とうの昔に、変わっていたんだ」
シノは包丁を握りしめたまま、唇を噛みしめた。目が少しだけ潤んでいる。
「それに——」
俺は少しだけ間を置いてから言った。
「リクが村に帰り、アリシアが王女としての務めを果たし、サジョウがまだ修業を続ける中で——ここに残って、ここの味を守る者がいる。それが、最初の弟子としてのお前の役目だ」
「俺の——役目」
「ああ。弟子たちが出て行っても、帰ってくる場所がある。その場所を守るのが、兄弟子の仕事だ。お前はここで、これからも卵かけご飯を握り続けろ。誰かが帰ってきた時、『おかえり』と差し出せるように」
「……はい」
シノは涙をぬぐい、包丁を握り直した。その目はもう、迷いのない料理人の目だった。
「師匠——俺、ここを守ります。ずっと」
「ああ。頼んだぞ」
午後、アリシアが王宮での公務を終えて屋台に顔を出した。王女の正装から着替え、すっかり厨房の調理服が板についている。
「師匠、ただいま戻りました」
「おかえり。公務はどうだった」
「今日は戴冠式の日程が正式に決まりました。一月後です」
「そうか。忙しくなるな」
「はい。でも——戴冠式の晩餐会で、私の養生スープを振る舞いたいんです。王宮の料理人たちと相談して、何とか許可をもらいました」
「面白いな。王女が自分の戴冠式で自分のスープを出すのか」
「はい。師匠に教わったことを、皆に知ってもらいたくて」
「いいだろう。味見はいつでも付き合う」
アリシアは微笑み、厨房に向かおうとして——ふと足を止めた。
「師匠。リクが村に帰って、少し寂しくなりましたね」
「ああ。でも、帰ってくる。ここはあいつの故郷でもある」
「そうですね。ここは——みんなの故郷です」
彼女は少しだけ遠くを見つめ、それから養生スープの鍋に向かった。
夕暮れ、今日最後の客を見送った後、リリアがカウンターで茶をすすりながら言った。
「シノが腹を決めたみたいだな」
「ああ。自分の役目を見つけた」
「兄弟子は大変だな」
「でも、向いてる」
「そうだな」
サジョウが最後の粥の鍋を片付けながら、シノに声をかけた。
「シノさん——明日からも、私に色々教えてください」
「ああ、もちろん。一緒に、この屋台を守ろう」
「はい!」
夜が更けて、市場に静けさが戻る。屋台の灯りがともり、明日への仕込みが静かに続いていた。弟子たちはそれぞれの道を歩み始めている。しかし誰もが、ここに帰ってくる。ここが彼らの居場所だからだ。
(第105話 終)




