第102話「帰還」
氷の裂け目を発ってから南へ数日、一行の足取りは軽かった。凍てつく風が和らぎ、荒涼とした氷原は次第に緑の野原へと変わっていく。空には青空が広がり、鳥の声が聞こえ、川の水は澄んでいた。世界の味が、完全に動きを取り戻した証だった。
「花が咲いてる」
リリアが弓で道端を示す。氷原から続く山道の合間に、小さな白い花が顔を出していた。つい数日前まで凍てついていた土地に、確かな春が訪れている。
「氷の権能が溶けたからな。これで世界の味は、もう凍りつくことはない」
「ああ。長かった」
「でも、終わったんだな」
「終わった。だから——帰るんだ」
弟子たちは道すがら、見つけた山菜や花を摘んでは料理の構想を語り合っている。シノは卵かけご飯に合う山菜はどれかと真剣に悩み、アリシアは養生スープに使える薬草を探し、リクは東方のアオサと山菜を組み合わせられないかと試行錯誤し、サジョウはまだ包丁の手つきが覚束ないながらも、初めて自分で見つけた食材に目を輝かせていた。
将軍は無言で粥の鍋をかき混ぜ、グレゴールとエレナは旅の疲れを癒やす汁物の準備をしている。ゴルドアとマクシミリアンは周囲の警戒を続けながらも、どこか穏やかな表情だった。ギリアムは大剣を背負い直し、時折、空を見上げては深く息を吐いている。
そして王都の城壁が、ようやく地平線の向こうに姿を現した。
城門の前には、今日も人だかりができていた。旅立ちの時と同じように、ヴィオラとランドルが先頭に立ち、ヴァルケンと戦士たちが整列し、常連客たちが旗や花を手に待っている。弟子たちが駆け出すと、広場からどっと歓声が湧き起こった。
「カズマ!遅かったじゃないか!」
ヴィオラが叫ぶ。蜂蜜色の髪が風に揺れ、目が少しだけ潤んでいるように見える。
「悪い。氷の権能とやらが手強くてな」
「氷の権能——報告は聞いてる。でも、終わったんだな。世界の味は、これでもう——」
「ああ。完全に戻った。少なくとも、大きな脅威は去った」
「よかった……本当に、よかった」
ランドルが苦笑いで手を差し出す。
「カズマ殿、ご無事で何より。監察局の者たちも、あなたの帰還を心待ちにしておりました」
「留守を任せてすまなかった」
「いえ、あなたが世界を救っている間に、我々が街を守るのは当然のこと」
ヴァルケンが深く一礼し、戦士たちが口々に「おかえりなさい」と声をかける。大男は味噌汁の鍋をかき混ぜながら少し照れくさそうに笑い、細身の戦士は焼きおにぎりを網に並べ直し、年少の戦士は卵かけご飯の卵を割る手を止めて走り寄ってきた。
「カズマさん——おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
将軍が無言で屋台の前に歩み寄り、そっと粥の鍋を差し出す。
「約束の粥だ。味見を頼めるか」
「ああ。楽しみにしてた」
一口すすると、粟の甘みと出汁のうま味が絶妙に調和している。将軍の腕は、もう立派なものだ。
「うまいよ。合格だ」
「……そうか。よかった」
将軍はかすかに口元を緩め、鍋を抱え直した。
夕暮れ、屋台では久しぶりの宴が開かれた。といっても特別な料理はない。焼きおにぎりと味噌汁、将軍の粥、弟子たちのそれぞれの一皿——いつも通りのまかないを、いつも通りの仲間たちと囲む。
「結局、ここに戻ってくるんだな」
リリアが茶をすすりながら言った。弓はいつも通り、カウンターの隅に立てかけてある。
「ああ。ここが俺の場所だからだ」
「これからも、そうか」
「ああ。屋台は終わらない。腹を空かせた客がいる限り——俺はここで料理を作り続ける」
弟子たちが笑い合い、常連客たちが焼きおにぎりをかじり、ヴァルケンたちが味噌汁を振る舞う。将軍が粥をよそい、グレゴールとエレナが新しい漬物の甕を開け、ゴルドアとマクシミリアンが静かに酒を酌み交わす。サジョウは初めて自分の手で握ったおにぎりを常連客に差し出し、その反応におどおどしながらも嬉しそうに微笑んでいた。
夜が更けて、市場に静けさが戻る。しかし屋台の灯りは消えない。明日もまた、明後日もまた——腹を空かせた誰かのために、この灯りはともり続ける。
(第102話 終)




