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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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101/120

第101話「氷の権能」

北の氷原は、これまで訪れたどの地よりも過酷だった。凍てつく風が肌を切り裂き、吐く息は即座に白い結晶となって舞い落ちる。空は灰色に曇り、太陽の位置すら見えない。一行を導くのは、リリアが先の偵察で見つけたという氷の裂け目だけだった。


「この先だ」

リリアが弓で前方を示す。氷原の果てに、巨大な裂け目が口を開けていた。底は見えず、冷たい霧がそこから絶え間なく溢れ出している。霧は甘い腐臭を帯び、肌に触れると舌が凍りつくような感覚があった。


「この裂け目の奥に、氷の権能が眠っている」

エルムが杖を掲げて言った。

「かつて神々が封じた、冷たさそのものを司る力。これが完全に目覚めれば、世界の味は再び凍りつく」

「止める方法は」

「権能の中心に、温かい料理を捧げることだ。しかし——」


エルムの声が沈んだ。

「氷の権能は意思を持っている。残香の欠片のように暴走しているのではなく、自らの意思で世界を凍らせようとしている。つまり——」

「つまり、向こうも抵抗してくる。力ずくで料理を拒むかもしれない」

「ああ。かつてない戦いになるだろう」


ギリアムが大剣を担ぎ直し、ゴルドアとマクシミリアンが左右に展開する。リリアが矢をつがえ、シロガネとクロが低く唸り、ガルムと喪犬が耳を立てた。トシとグーラはいないが、彼らが世界中で味を広げていることが、今度は俺たちの支えになるはずだった。


「行くぞ。全員、気を引き締めろ」

「了解」「ああ」


裂け目に降りる氷の階段は、足を踏み外せば終わりの険しさだった。しかし一歩ごとに、空気が重くなり、舌の奥が凍りついていくのを感じる。氷の権能が、来訪者を拒んでいるのだ。


裂け目の最奥には、巨大な氷の宮殿が広がっていた。すべてが透明な氷でできているが、その氷は不気味な青白い光を放ち、見ているだけで心が凍りつきそうになる。宮殿の中央、氷の玉座に——それは座していた。


女の姿をしていた。しかしその全身は青白い氷でできており、長い髪は氷柱のように尖り、瞳は凍りついた湖のように無機質だった。指先からは絶えず冷たい霧が溢れ出し、宮殿全体を満たしている。


「——人間ごときが、我が領域に踏み入るとは」

声は氷が砕けるように冷たく、聞く者の心の奥まで凍らせる。

「私は氷の権能。冷たさそのもの。かつて神々は私を封じ、世界に温かさをもたらした。しかし今、私は目覚めた。再び世界を凍らせ、すべての味を静止させる」

「なぜ、味を凍らせる」

俺は一歩前に出た。

「味は動いてこそ意味がある。凍りついた味は、もはや味ではない」

「味など不要だ。味があるから、人は争い、苦しみ、飢える。すべての味を凍らせれば、争いも苦しみも飢えも消える。これは——救済だ」

「違う。それは救済じゃない。ただの死だ」


氷の権能は笑った。氷柱が砕け散るような、冷たい笑みだった。

「ならば——証明せよ。お前の“動く味”とやらで、私の冷たさを超えられるか」


俺は裂け目の中央に簡易竈を据え、最後の材料を並べた。旅の途中で集めたものは少ない。しかし——ここに来るまでに出会ったすべての味が、俺の手元には揃っている。


将軍の粥の素、リクの東方アオサ、アリシアの養生スープの素、シノの卵黄の最後の一つ、サジョウの香炉の最後の欠片——それから、無味砂漠の岩塩、甘味の祠の蜂蜜、山の祠の山菜、苦味の祠の薬草。すべてを一つの鍋に集め、弱火でじっくりと煮詰めていく。味を動かすための料理は、これで最後だ。


しかし——氷の権能はそれを許さなかった。冷たい霧が鍋を包み込み、湯気が立ち上るそばから凍りついていく。どんなに火を強めても、鍋の表面には氷の結晶が張りつき、味が動き出す前に閉じ込められようとしていた。


「カズマ!このままじゃ——」

リリアが叫ぶ。

「わかってる。しかし——」


その時、裂け目の入口から、見知った声が響いた。


「師匠——!」

「カズマさん!」


シノ、アリシア、リク、サジョウ——四人の弟子たちが、息を切らせて駆けつけてきた。手にはそれぞれの鍋や包丁が握られている。その後ろには将軍、グレゴール、エレナ、ヴァルケンたちまでいる。


「お前たち——なぜここに」

「決まってます」

シノが包丁を握り直した。

「師匠が一人で戦うわけにはいかない。俺たちも——師匠の弟子だから」

「私たちは師匠に教わりました。料理は誰かのために作るものだと」

アリシアが静かに微笑む。

「その誰かのために——今度は私たちが料理を作ります」

「俺も、母さんの鍋で——師匠を助けます」

リクが鉄鍋を掲げた。

「私も——やっと、誰かの役に立てる料理を作れるようになりました」

サジョウが包丁を握りしめる。


将軍が無言で粥の鍋を差し出し、グレゴールが出汁を、エレナが薬草を、ヴァルケンたちがそれぞれの持ち場に立つ。リリアが弓を構え、ギリアムたちが前線を守り、エルムが杖を掲げた。


「——全員、揃ったな」

俺は鍋に向き直った。

「よし。みんなの味を、ここに集めるぞ」


弟子たちがそれぞれの鍋に火をかけ、将軍が粥を炊き、グレゴールが出汁を取る。そのすべての料理を、俺の鍋に少しずつ加えていく。シノの卵黄、アリシアの養生スープ、リクの潮の香り、サジョウの留めの一滴——それらが混ざり合い、鍋の表面の氷がかすかに溶け始めた。


「氷が——」

リリアが呟く。

「ああ。味が、動き始めている」


氷の権能が玉座から立ち上がり、冷たい霧をさらに濃くする。しかし鍋から立ち上る湯気は、もはや凍りつかない。それどころか、霧を押しのけ、宮殿全体に温かな香りを広げていく。


「“旅の終わりの一匙”——みんなの味が、すべてここにある。これを捧げる」


器を氷の権能の前に差し出すと、彼女の凍りついた目が、かすかに揺らいだ。器を受け取り、一口すする——その瞬間、氷の全身が激しく震えた。


「……温かい。しょっぱい、甘い、すっぱい、苦い——そして、これが——“誰かのために作る味”」

「そうだ。これが、動く味だ。お前が凍らせようとしている味の、本当の姿だ」


氷の権能の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。それは凍りつくことなく、床に落ちて小さな水たまりを作る。

「……私は、温かさを知らなかった。誰も私に料理を作ってくれなかった。私はただ——冷たさだけが、私の存在理由だった」

「今、知った。これからは——冷たさも味の一部だ。温かさを引き立てる、大切な味だ」


氷の権能は深くうなずき、その体がゆっくりと溶け始めた。宮殿全体が青白い光に包まれ、氷の結晶が解けていく。裂け目から差し込む光が、すべてを温かく照らし出した。氷の権能は最後に微笑み、一滴の清水となって床に落ちた。


「——終わったのか」

リリアが弓を下ろし、深く息を吐いた。

「ああ。終わった」

「今回も、料理で押し通したな」

「それだけだ」

「それだけで世界が救えるんだから、大したもんだ」


弟子たちが歓声を上げ、将軍が粥の鍋を抱え直し、グレゴールとエレナが無言でうなずき合う。ゴルドアとマクシミリアンが拳を握り合い、ヴァルケンたちが安堵の息をついた。


裂け目の外に出ると、氷原の空に青空が広がり始めていた。冷たい霧は消え、風が爽やかな冷気を運んでいる。


「帰ろう。屋台へ」

「了解」「はい!」


一行は南へ、王都へと歩みを進める。長い旅が、ようやく終わりを迎えようとしていた。

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