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守る刃、支える算  作者: 麦崎誠
第二章 旅路
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第八話 職探し

 名もなき浪人は、その場を離れる前に一つだけ目の前の女『お花』に質問をする。

「で、これからどうする?」

己は、食うために働かなければならない。しかし、この女の行く末がわからなくなることを考えると気が落ち着かない。お花は、その問いかけに寂しげに答えた。

「……行くあてなど、ございません。どうすればいいのか……何も……」

名もなき浪人は顎を掻く。

「まあ、そうだろうな……俺は俺で、日雇い仕事で日銭を稼いでる身だ。今日も、仕事をする…が、女には厳しい仕事だろうな…」

少しの沈黙がその場を支配する。暫くして名もなき浪人が口を開く。

「……ただ、ここに放っておくってのも俺の信条に反する」

視線を戻す。

「お花…といったか、俺についてくるか?」

お花は驚きのあまり目を見開く。

「俺と同じ仕事ってわけには行かねぇが、日銭を稼げる仕事、一緒に探すことくらいできるだろ」

浪人のその言葉を聞いたお花は何度も頷いた。

「よし、まずはそこの井戸で、その汚え顔を洗ってこい。話はそれからだ」

お花が顔を洗っている隙に、名もなき浪人は空になった瓢箪を満たす。顔を洗い、井戸水に濡れた黒髪が頬に張り付き、朝の光を受けて白い額がのぞく。先ほどまで煤に隠れていた顔立ちは、思いのほか整っていた。名もなき浪人は一瞬だけ目を逸らし、無意識に頬を掻いた。しかし、すぐに平静を装い、一言、彼女に告げる。

「行くぞ。まずは俺の日雇いの仕事を探しに港へ向かう」

港では、相変わらず巨大な異国船と監督の怒号。労働者が荷揚げをする光景が広がっていた。自分の仕事を探す前に、お花に質問をする。

「お花よ。何か、芸の一つや読み書きはできるか?」

「……いえ。舞や三味線のような、そのような雅なことは、何も……。読み書きも……自分の名前と、ひらがなをいくつか、やっと書けるくらいで……」

それを浪人に伝えると、お花は何かを思い出したかのように手を叩く。

「あ……でも! お店の帳場で、父に少しだけ算盤を習いました。銭の勘定でしたら、少しは、お役に立てるかもしれません……!」

その言葉を聞いて名もなき浪人はわずかに笑みを浮かべる。

「算盤か。悪くない。それなら商家の下働きくらいは見つかるかもしれんな...お前はここで待ってろ。下手にうろつくと面倒に巻き込まれる。俺が戻るまで、ここを動くんじゃないぞ」

彼は、それだけ言い残すとお花の返事も待たずに駆けて行った。

 名もなき浪人は広場で口入れ人に声をかける。

「親方」

「おう、お前か。また来たな。相変わらず死にぞこないみたいな顔しやがって」

「昨日と同じ仕事、まだあるかい。荷揚げだろ」

「ああ、あるぞ。今日も沖の異国船からだ。荷が重くて昨日よりきついが、その分、日当は弾む。やるか?」

「ああ、頼む...それと、もう一つ頼みがある」

「あん?」

「連れの女がいるんだが、算盤ができる。どこか商家で下働きでも探してる所はねえか?」

「へえ、お前さんが女連れとはな。殊勝なこった。だがな、ここはそういう場所じゃねえんだ。女の仕事なんざ知るか」

「……まあ、そうだな。この近くの日本人町の商家『鶴屋』が、帳場の手伝いを探してるって話は、昨日ちらっと聞いたな」

「で、お前の仕事はどうする? 鶴屋とやらに付き合ってやるなら、今日の荷揚げは他の奴に回すが」

お花の事は気になる...が、ここで仕事ができなくなって二人とも野垂れ死んでは話にならない。名もなき浪人は即答する。

「いや、俺の仕事はやる。話は後だ」

「そうかよ。ならさっさと行け。もう始まってる。他の奴らに遅れを取るなよ」

名もなき浪人は口利きに返事をし、お花のもとへ行く。

「終わるまで、ここを動くな。誰に声をかけられても相手にするな。いいな」

「は、はい……! お気をつけて……」

そうして名もなき浪人は持ち場に戻った。

「遅ぇぞ! さっさと並べ!」

監督の怒号が飛ぶ。名もなき浪人は無言で列に加わった。肩に縄を回し、板橋を渡る。船腹へ続く急な足場は、潮で濡れ、滑る。沖からは異国の言葉が飛び交う。笑い声とも怒鳴り声ともつかぬ響き。

(……相変わらず重いな)

最初の荷は樽だった。

中身は知らぬ。だが、水でも石でも詰まっているかのような樽の重量が腕に食い込む。しかし、ここで音を上げれば志どころか今日の飯すら危うくなる。浪人は歯を食いしばり、踏みしめる。足場が軋む。一歩。また一歩。背後から誰かが吐き捨てる。

「ちっ……化け物みてぇな船だ」

名もなき浪人は答えない。汗が目に入る。塩気が滲む。彼はただ黙って仕事をこなした。

昼近くになると、日差しが強まる。甲板は鉄板のように熱を帯び、足の裏から焼けるようだった。一人の若い人足が足を滑らせた。荷が傾く。

「おい!」

咄嗟に名もなき浪人が腕を伸ばす。崩れかけた樽を肩で受け止める。鈍い衝撃が走る。

「す、すまねぇ!」

「気にするな。落とせば倍働く羽目になる」

短く言い、再び歩き出す。

無駄な言葉はない。ただ、黙々と荷を運び続けた。

やがて監督の声が変わる。

「そこまでだ! 一旦休め!」

どっと人足たちが崩れ落ちる。名もなき浪人は、少し離れた木箱に腰を下ろした。荒い呼吸を整え、空になりかけた瓢箪を傾ける。視線が自然と広場の方へ向く。

――いた。

動かずに、そこに。両手を前で重ね、じっとこちらを見ている。逃げていない。絡まれてもいない。ただ、待っている。

(……律儀な娘だ)

少しだけ、胸の奥が緩む。そのとき、異国の水兵が二人、近くを通り過ぎる。甲高い笑い声。お花の方をちらりと見る。名もなき浪人の視線が変わる。水兵と目が合う。ほんの一瞬。だが、その目線には言葉を必要としない圧があった。水兵は肩をすくめ、興味を失ったように去る。名もなき浪人は何事もなかったかのように立ち上がる。

「休憩終いだ! 動け!」

再び縄を握る。名もなき浪人は痛みに耐えながら懸命に荷を運び続けた。

日が傾き始める頃、ようやく荷揚げは終わった。

「おい、浪人」

親方が声をかける。

「今日もよく働いたな。文句も言わずに黙々とよ。気に入った」

名もなき浪人は無言で銭を受け取る。手の中の重みは、昨日より確かだった。給金を握ったまま、彼は足を止めた。ふと、今朝の口利きの言葉が気にかかる。

鶴屋――いくら町場の商家とはいえ、 暖簾の格も、店構えも、港の噂とは比べものにならぬ。だが、暖簾は信用で立つ。身寄りもなく、素性も曖昧な娘。それを浪人が連れて来たとなれば――

(門前で追い返されるのが関の山か)

脳裏に、別の暖簾が浮かぶ。江戸、日本橋。三國屋。横浜居留地の酒場の前で酔った異国の水兵に絡まれ、怯える商人。―銀貨を差し出した、自分の手。

「江戸へお立ち寄りの際は、ぜひ日本橋の三國屋へ!」

あの男は、真っ直ぐな目をしていた。銭差しの重みも、覚えている。

(あの男なら……)

算盤ができる娘だと言えば、事情を汲んでくれるやもしれぬ。一度、縁を結んだ相手だ。

だが、江戸へ戻るということは 京へ向かう道から外れることを意味する。俺は決めたはずだ。京へ行く。

やるべきことを果たす。『一度決めたことは、最後まで。』それが俺の拠り所。異国船が夕陽に沈みかけている。時代は確実に動いている。その中で、自分は立ち止まるのか。志を曲げるのか。足が止まる。

視線の先には、お花がいた。港の隅で、言いつけ通り動かずに。 誰とも口をきかず、ただこちらを見ている。あの夜、助けると決めた。彼女の仕事を探し始めた。それもまた、自分の決意、行いだ。

(どちらが先だ)

京へ行く志か、この娘を守るという決意か。

否。どちらも、決めたことだ。

——ならば、先に守る。

守り抜くこともまた、最後までやり通すべきこと。京は逃げぬ。志は、道が曲がったくらいで消えはせぬ。だが、今この娘を置けば、それは裏切りになる。己の信条への。

名もなき浪人は息を吐く。迷いが落ちる。彼はお花の前に歩み寄る。お花は、言いつけ通りその場を動かずに待っていた。彼の姿を見るなり、ほっとしたように立ち上がる。

「おかえりなさいませ」

「ああ」

短い返事。

「怪しい奴に声はかけられなかったか」

「は、はい。誰とも……」

名もなき浪人は頷く。

「少し話がある。お主の仕事の事で一か所、思い当たる場所がある」

少し間を空けて口を開く。

「江戸だ。江戸に、三國屋という呉服屋がある。横浜で一度、助けたことがあってな...恩を忘れぬ男なら、口添えくらいはしてくれるかもしれん」

お花の目が揺れる。

「江戸……」

遠い都。

「怖いか」

「……少し。でも、ここにいても、何も始まりません」

名もなき浪人は小さく頷いた。

「決まりだ。今夜出る船があるはずだ。それに乗るぞ」

京へ向かう道を、いったん外れる。それでも構わぬ。


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