第九話 船出
船着き場には、江戸行きの小舟があった。白髭の船頭が、客を値踏みする目で見る。
「二人で二百文だ」
名もなき浪人は即座に銭を差し出す。
「夕刻に出る。それまでに乗れ」
出航まで、わずかに時間がある。浪人は市場へ向かい、干飯と梅干しを買い、お花に持たせた。
「船に乗ったら、むやみに口にするな。江戸までは保たせる」
「はい」
お花は大事そうに抱える。浪人は懐を探る。銭は――わずか。二百文を払った残りは、心許ない数枚。江戸に着いても宿は取れぬ。三國屋へ辿り着くまでに何かあれば、終わる。腰の刀に手を添える。古びた鞘。欠けた鐺。擦り切れた柄糸。
「鉄くずだな」
かつて鍛冶屋に言われた言葉が蘇る。自分一人なら構わぬ。だが、守ると決めた。視界の端に、裏路地が映る。荷を離した商人。酔い潰れた水兵。やろうと思えば、できる。今なら。
―手を黒く染めるか。
胸の奥が軋む。
「二度とこんな真似するんじゃねぇぞ」
あの盗人に言った言葉。あれは、誰に向けた言葉だった。他人か。それとも――自分か。
「後、半刻で出るぞ!」
船頭の声が響く。時間がない。船出をやめるか。ここに留まるか。それは、お花を置き去りにするのと同じだ。
(どうする)
答えは、出ている。綺麗事で守れるほど、世は甘くない。何かを守るなら、何かを捨てるしかない。名もなき浪人は、静かに目を閉じる。
―すまねぇ。
誰に向けた謝罪か、自分でも分からぬ。目を開く。迷いは消えている。
「お花」
「はい」
「ここで待て。すぐ戻る」
それだけ言い、裏路地へ消えた。
浪人は人影に紛れる。そして袖が、わずかに触れる。指先に、銭袋の感触。
——軽い。
夕闇の中、お花のもとに戻る。顔は変わらぬ。だが、懐の重みが違う。腰には安っぽいが、新しい打刀。小さな油壺。そして、増えた銭。お花は何も問わない。浪人も何も言わない。
「出すぞ!」
舟が岸を離れる。櫂が水を裂く。港の灯が遠ざかる。名もなき浪人は闇の水面を見つめる。
(これでいい......これで、いいんだ)
そう言い聞かせる。時代は、綺麗ではない。ならば―汚れた手で掴むしかない。それが守るということなら。
舟は静かに、江戸へ向かった。




