第十話 海の上で
茜色の空の下、船は岸を離れた。横浜が遠ざかる。お花は船縁にしがみつき、不安げに景色を見つめている。
「酔うか」
「……少し」
「無理はするな。座っていろ」
やがて、お花は膝を抱えて眠った。一方で名もなき浪人は眠らない。
夜も深くなった時、波音と、軋む船板の音に混ざって低い声が聞こえた。名もなき浪人は樽の陰へ身を滑らせ、息を殺す。三人の男が船上で密談をしている。
「……いいか、標的は井土ヶ谷にいる仏蘭西の士官だ。名はアンリ・カミュ。毎朝、馬で居留地まで通っている」
「奴一人か? 護衛は?」
「供は一人か二人だ。だが、まともにやり合う必要はない」
布包みを掲げる。
「『先生』から授かった、この『雷汞』を使う。これを道に仕掛けておけば、馬が驚いて奴を振り落とす。あとは、首を獲るだけだ。攘夷の狼煙を上げる。これはその第一歩よ」
「……分かった。明朝、江戸に着き次第、支度を整えよう」
「うむ。天誅は近い……」
やがて男たちは散った。
名もなき浪人もまた、元の場所へ戻る。
お花は眠っている。
(井土ヶ谷でのフランス士官暗殺……)
成功すれば……戦が起こる可能性は十分ある。
(……勝てる相手じゃねぇ)
冷たい夜風が頬を打つ。異国船の砲声が、脳裏に蘇る。焼ける町。泣き叫ぶ女。瓦礫の中に立ち尽くす子ども。それを見たことはない。だが、分かる。起きれば、そうなる。
(攘夷は、志だ)
だが―志だけで国は守れぬ。名もなき浪人は、静かに息を吐く。
(江戸に着き次第、奉行所へ行く)
裏切り者と呼ばれようと構わぬ。斬られるなら、それでもいい。守ると決めた。この娘だけではない。この、まだ脆い国を。夜の海は深い。だが、浪人の目に迷いはない。
(……もう、戻れねぇな)
江戸の灯が、遠くに滲んでいた。




