第七話 出会い
金は足りない。 だが非道に堕ちる気にもなれない。そう考え、浪人は木賃宿も取らず橋の下で眠ることにした。川音と犬の遠吠え。周囲の音に耳を傾けていたその時。
「……ひっく……うぅ……」
女のすすり泣き。
(なんだ?)
名もなき浪人はゆっくりと身を起こし、橋の上へ向かう。橋にたどり着いたその時、足が止まった。彼の目に飛び込んだのは欄干にもたれる若い女。年の頃は十六、七。
身を投げる寸前の静けさがその場を支配する。意を決して名もなき浪人は橋へ上がり、声をかけた。
「――そこで何をしている」
女は絶望と恐怖の表情を滲ませて振り返る。その時、女の足先が、わずかに欄干を越えた。
(間に合うか)
名もなき浪人は血相を変えて地を蹴った。女の腕を掴んで自らに引き寄せる。
「急に御身を引き寄せる無礼、お許し願いたい。私は、このようななりだが、暴力はせぬ。何があったか、教えてもらえぬか?人に話せば少しは気が楽になるであろう」
浪人の荒々しい行動と、静かな声を聴いた女は崩れ落ちるように泣く。浪人は女の手を取り、橋の袂へ座らせた。
橋の袂に座った二人。名もなき浪人は何も問わず、女の背をさする。上へ、下へ。やがて嗚咽は静まる。夜風が吹く。
「今宵は、冷えるな」
浪人は一言つぶやき、着流しを女の肩にかける。女はこてん、と浪人の肩にもたれ、幼子のような寝息を立てる。
(面倒なことになった)
だが、不思議と嫌ではない。周囲の音に包まれながら名もなき浪人は女の隣に黙って座っていた。
そうしているうちに、どれほどの時間が過ぎただろうか。東の空が墨を流したように、じわりと白み始めていた。夜の闇が薄れ、世界の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。夜明けの気配を感じ取ったのか、名もなき浪人の肩に寄りかかっていた女が、ん……と小さく身じろぎして、ゆっくりと顔を上げる。 寝ぼけ眼で数度まばたきをした後、自分が誰かの肩に寄りかかっていたことに気づき、はっと息をのんで体を離した。その瞳には、もう昨夜の狂的な光も、名もなき浪人への恐怖もなかった。あるのは、深い悲しみと、そして、夜明けの光の中で改めて見る名もなき浪人の姿への、どうしようもない戸惑い。彼女は、名もなき浪人と、自分の肩にかかったままのボロの着流しの裾を交互に見つめ、やがて、消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。
「……あの……どうして……」
女の問いかけに、名もなき浪人はゆっくりと顔を向けた。
夜明け前の薄明かりが、無精髭の生えた横顔をぼんやりと照らし出す。その目は、夜の闇よりも深い色をしていた。
名もなき浪人は、彼女から視線を外し、白み始めた東の空を見やりながら、静かに、しかし確かな響きを持つ声で言った。
「どうしてって……」
名もなき浪人は、言葉を探すように一度口を閉じた。
「俺は、一人の浪人である前に、一人の男だ。思い悩み、泣いておる女を放ってはおけぬ」
口にしてから、少し気恥ずかしくなった。だが、他に言いようもなかった。女は息を呑み、横顔をじっと見つめる。その瞳は、夜露に濡れた朝顔のように潤んでいた。やがて、堰を切ったように語り始める。
「……わたくしは、お花、と申します。この近くの居酒屋で働いておりました。でも……三日前、店が……異人さんに、燃やされてしまって……店の主人も、おかみさんも、皆... 帰ってきたら、もう、何もかも……」
嗚咽に変わる。名もなき浪人は黙って聞いていた。
「異人たちが、笑いながら、酒瓶を投げ込んでいました……。止めてくれるお侍さんも、役人さんも、誰もいなくて。わたくし……何もできなかった。ただ、隠れて見ていることしか……」
両手で顔を覆い、声を殺して泣き始める。しばらくの沈黙の後、名もなき浪人は低く言う。
「お前は悪くない。何もできなかったのは、お前一人のせいではない。そのように自分を責めるな。この時世、仕方のないことだ。……悲しいことだがな」
名もなき浪人は懐を探り、最後の握り飯を取り出した。
「腹が減っては何も始まらん。食え」
「……ありがとう、ございます」
涙をこぼしながら、夢中で頬張る。生きる涙だった。やがて彼女は深々と頭を下げた。
「……ごちそうさまでした。あの……本当に、ありがとうございました。この御恩は、一生忘れません」
「礼などいらん」
名もなき浪人は短く、その一言だけ返した。




