第三話 横浜の仕事
朝起きて、団子を食べ、働いて鰯定食を食べ、安い木賃宿で寝泊まりをする。そんな生活が始まり、一週間がたった。
ちり、と頬を刺すような光で、名もなき浪人は目を覚ます。板壁の隙間から、鋭い朝の日差しが一条の光となって差し込んでいる。ゆっくりと体を起こす。今日もまた、生きるために働く。宿の大部屋で雑魚寝をしていた男たちの大半はすでに姿を消している。数人がまだ転がっているが、ほとんどは夜明けとともに糧を求め、それぞれの戦場へ向かったのだろう。帳場の老人だけが、相変わらず気怠そうに座っていた。名もなき浪人は刀を腰に差し、誰に挨拶するでもなく木賃宿を後にした。
今日もまた、いつもの広場へ向かうと、口入れ人が叫んでいる。
「今日の仕事は一つだ! 横浜の波止場で、異人の蒸気船から荷を降ろす! 半日で三十文! ただし、指図するのは異人だ! 言葉も通じねえし、気に食わねえとすぐ鉄拳が飛んでくる! それでもやりてえ奴は前に出ろ!」
浪人の周囲でどよめきが起こる。
「異人だとよ」
「殴られて三十文じゃ割に合わねえ」
「半日で三十か……」
誰もが計算している。 銭と、痛みと、面子を。名もなき浪人もまた、立ち尽くしたまま動かない。蒸気船。異人。鉄拳。胸の奥に、得体の知れぬざらつきが走る。異人を見たことがあるのか。会ったことがあるのか。分からぬ。分からぬが、生きている限り腹は減る。昨日食った鰯の味は、もう遠い。今夜の飯を得られねば、明日の力は出ぬ。躊躇は、銭にならない。迷っているあいだに、仕事は他人の手に落ちる。落ちれば、今日は食えぬ。それだけは、はっきりしている。
——躊躇は、死だ。
「どきやがれ!」
浪人は人垣をかき分け、口入れ人の前に立つ。
「ほう、威勢のいいのが一人いたな。その目、気に入った。よし、お前さん、決まりだ!」
こうして十人ほどが集まり、横浜へ向かう。
暫く長い道のりを歩き、一行は横浜居留地にたどり着く。蒸気船は山のようだった。黒煙を吐き出す鉄の塊。波止場では屈強な西洋人が怒鳴り、人足を蹴り飛ばしている。その時、監督役の一人が革袋を落とした。名もなき浪人は拾う。一瞬、黒い衝動がよぎったが、首を振る。革袋を差し出し、拙い言葉を絞り出す。
「えくすきゅーずみー……でぃす、ゆあ・ばっぐ?」
「…A?」
男は一瞬、首を傾げたが、やがて浪人の言葉の意味を察したのか
「My bag?...Yes.」
急いで確認し、浪人の行動と、袋の中身が何一つ減っていないことに驚く。
「Oh…Thank you.」
男は浪人に銀貨を握らせた。周囲の視線は、浪人に冷たく突き刺さる。だが彼の胸の奥には、かすかな誇りが灯っていた。
監督の号令を皮切りに労働が始まる。木箱は重い。
「せえのっ!」
共に働く仲間と、荷を運ぶ。箱は肩に食い込み、足元は悪い。汗が目に染みる。怒号が飛ぶ。半日が永遠のようだった。
正午、ようやく終わる。名もなき浪人は麻袋の陰に倒れ込む。握り飯をかじる。ぬるい水を飲む。
午前中の労働を振り返り、自分の体力のなさを目の当たりにする。
(もっと強くなりたい)
木箱を一人で持ち上げる。
「ぐぅっ……!」
さらに頭上へ。
「おおおおおっ……!」
筋肉が裂けるような痛み。だが、その奥に確かな手応えがあった。呼吸、腰、踏み込み。力の理を掴む。拳を握ると、以前とは違う感触があった。
鍛錬を終え、店で昼食を摂る。汁飯で満たされた腹は、名もなき浪人の心にわずかな余裕をもたらしていた。波止場の喧騒と汗の匂いを背に、名もなき浪人は未知なるものへの好奇心に引かれるまま、横浜居留地の中心部へと足を踏み入れる。一歩、また一歩。空気が変わる。潮の香りを含んだ生臭い風は遠のき、代わりに鼻腔をくすぐるのは、嗅いだことのない甘く香ばしい匂い、鼻を刺す奇妙な香水の香り、そして微かな葉巻の煙だった。地面はもはや土ではない。硬い石が隙間なく敷き詰められ、その上を鉄の輪をはめた馬車がけたたましい音を立てて走り抜けていく。名もなき浪人が思わず身をすくめると、御者台の西洋人が侮蔑の目で何かを叫んだ。言葉は分からぬ。だが、軽蔑の色だけは痛いほど伝わる。見上げる建物は、日本の家屋とは全く異なる。石や煉瓦を積み上げた角張った巨大な塊。白や青に塗られた壁。太陽を反射する大きな硝子窓。窓の向こうでは、豪奢な衣装の西洋男女が赤い葡萄酒を傾け談笑している。高帽の紳士・鳥籠のように広がる裳裾の婦人・辮髪を揺らす清国人。異人が集まるここは、日本であって日本ではない。浪人は、強烈な疎外感を感じると同時に、抗いがたい興奮を抱いていた。そして——その場所は、己の在り方を試す場でもあった。




